栄子 前編-1
神社での出来事があった翌日―――。
学校から帰った俺を出迎えた母は、ひどく憔悴しきった顔をしていた。
まぶたが赤く腫れ、束ねている髪はほつれて、化粧もほとんど剥げ落ちてしまっている。
その姿はまるで、ヒステリックにわめき散らして疲れはてた狂人のように見えた。
「……か……母さん……何か……あったの……?」
昨日の麻理の事件が発覚し、母の耳に入ったのではないかという不安で、声が少し上擦った。
あの悲惨な輪姦現場を目撃しながら助けを呼びに行かなかったうしろめたさで、俺は必要以上に神経過敏になっていた。
少なくともあの時、俺がすぐに誰かを呼んでいれば麻理はあんな目にはあわずに済んだのだ。
手のひらにじっとりと嫌な汗がにじんで、喉がカラカラに渇いていた。
「―――昭彦―――」
母が震える声で俺の名前を呼んだ。
――――叱られる。
反射的にそう思った俺は、強く目を閉じて身を硬くした。
しかし予想に反して、母はいきなりその場にガクンと膝まづくと、俺の身体をギュッと抱き締めてきた。
肩に絡みついた腕が小刻みに震えている。
「……どう……したの………?」
いつもとあまりにも違う母の様子に、今度は別の意味で心配になり、俺は訊ねた。
母は震える手で俺の頭を撫でながら、申し訳なさそうにこう答えた。
「あの……あのね昭彦………母さん……明日から………苗字……変えることになったから」
「………えっ?」
全く予想もしていなかった報告に、俺は一瞬面食らった―――が、すぐにその言葉の裏にある本当の意味を理解した。
「……父さん……来たの?」
そう問いかけながら身体を離し、改めて母の顔を見ると、目の横にうっすらと青痣があることに気がついた。
――殴られたのか?
咄嗟にそう思った。
父親が母親に手をあげたところを俺は過去に一度も見たことはない。
しかし、その痣を作ったのは、きっと父親に間違いない―――そんなが確信があった。
母は俺の視線に気づくと、慌てて顔をそむけながら、精一杯明るい声で、まるで楽しいニュースを報せるような口調でこう言った。
「―――ううん、来てない。来てないよ」
俺を傷つけないための嘘だということはすぐにわかった。
父は恐らく今日ここに来たのだ。
薄汚れた母と、その息子を―――完全に捨てるために。
――――そして俺は、「川瀬昭彦」になった。
俺は姓を変える必要はないと言われたが、俺自身がそれを拒否した。
俺と母親をゴミのように捨てた親父の姓は、俺にとって最も忌まわしい「呪いの言葉」に成り下がったのだ。
――――――――――――――
姓が変わってからの俺は、全てに対してひどく無気力になっていた。
俺の家は親戚付き合いというものを一切していなかったため、「川瀬」という姓は、俺にとってまったく馴染みのない他人の名前のように思えた。
俺はもともと勉強が好きだったし、学校の成績もそれなりによかった。
しかし、名前というアイデンティティーを失ったことで、今まで自分がコツコツと築いてきたものがいっぺんにひっくり返されてしまったような気がして、何もやる気が起きなくなってしまったのだ。
学校もサボりがちになり、ふらふらと授業を抜け出すことが多くなっていった。
担任も母親も、そんな俺の変化に気づいていたのだろうが、まるで腫れ物に触るように当たり障りのないことを言うだけで、誰も俺を真剣に叱ってはくれなかった。
俺は孤独だった。