[
書く|
編集|
削除|
古順]
[
戻る|
前頁|
次頁]
No215-09/27 20:26
零凱(N901iS)
少しやる気が回復したのでカットした部分を。
こんな話があります。
Aさんは親に「“やられてもやり返すな”他人の痛みも分かる人間になれ」と育てられ、子供にもそう教えていました。
ある日子供がボロボロになって帰って来ました。話を聞くと抵抗しないので相手が増長したらしいのです。
Aさんが友人に相談すると、多くの親は“やられたらやり返せ”と教えていると聞き驚きました。
Aさんはどっちの方がいいのか分からなくなりました。
「どちらも極端。グレーゾーンも大事。反撃するかどうかは個人の裁量に任せるのが良い」と言うのは簡単です。が、個人の裁量の基準が社会一般から大きく外れていた場合は?
ちょっと“中道派”斬り。
No216-09/27 22:16
ソロ(P902i)
純粋無垢な人間、すなわち透明なキャンバスの人を、白き善人か黒き悪人に染めあげるのであれば、私は白き善人に染めあげるべきだと思います。
ただ、限りなく白に近い灰色と、限りなく黒に近い灰色であった場合、私なら暗い灰色の方を白く重ね塗りして出来るだけ薄くしたいと思います。
要するに、善人に育てるべきか悪人に育てるべきかなら、もちろん善人を選び。
善人を育てるべきか悪人を育てるべきかなら、悪人を育てるべき(B)だと言いたいわけです。
生まれついて要領のいい人間にも、もとより人を疑うことを知らない人間のどちらにも教えるべきは善であり、その比重はやはり要領のいい人間に傾けた方が良いと思います。
ちなみに私の思う善は、人を思いやる心を言い、決して法律を守ることではありません。
それに全くの余談ですが。
不良と呼ばれていた人間こそ、無事に卒業させてくれた恩師のことは忘れないものです。
悪を善に教育する。かなり骨が折れるでしょうが、立派になられた時の教えがいは善を悪にさせないことの何倍にも匹敵します。
教育とは、人を変えるものであり、変えるべき人にこそ教育すべきものだと思うので。
No217-09/27 23:14
初心者(SN36)
失礼します。昔は馬鹿野郎、最近までは落ちこぼれのレッテルをはられていました。
人生の恩師と出会い、まだまだ悩みながらも人生を歩んでいる、そんな餓鬼からの意見です。
人をそのように教育するのは、教師のエゴイズムだと俺は思います。いかに教育しようとも、どうなるかは本人次第なのだから。
教育するのではなく、導くものだと俺は教わりました。
よって、俺はあえて本人次第という答えを掲げさせていただきます。
No218-09/28 00:42
暗い刻(P902iS)
僕はBです。
完璧な善人を育てるのか、そうではないのか。そう読み取りましたので御了承ください。
すっごい偏見ですけど、悪ってその大部分を人間らしさが占めていると思うんですよね。
だから、その悪を完全に取り除く教育=人間らしさを取り除く教育、ということになってしまうと思うのです。
僅かでも悪の方向に針が振れるような行動を取らないなんて、そりゃ教育じゃなくて矯正だろって思うわけですよ、ヒネクレモノの僕は(笑)
人は善か悪かに育てるんじゃなくて、人は人に育てるんだぁ!とよく解らない結論を出して置きます。
もし意味の受取り方を間違っていましたら申し訳ございません、笑ってスルーしてください。orzガク・・・
それでは。m(_ _)m
No219-09/28 01:15
黒焔龍使い(HI36)
電子部品の話になってしまうけど…
同じ様な事が出来る半導体でも、
バイポーラトランジスタにはバイポーラトランジスタの、FETにはFETの利点や嫌な所がある。
結局、両方が必要で、両方この世に存在している。
人間も同じで、色々な特性の者が居るから世界が動くと思う。
つまり、悪人・善人をどちらか一本って言うのは逆に良くないと思う。
回答としては、AB両方とも知識として与えるべきかと。
<
書く|
編集|
戻る|
前頁|
次頁>