名探偵 鳴海清隆─新たな人生の始まり─ 1
梅雨明けが近づき、夏の足音が聞こえる。
久しぶりに清々しい青空に恵まれた日曜日の朝はどこか穏やかな気分を誘う。
大きめの窓から注がれる心地よい日差しは、染み一つ無い真っ白な室内により一層眩しさを与える。
その空間で唯一黒色のグランドピアノだけ、周囲の輝きに取り残されているかのように見える。
「どうやら寝不足のようだな…今日はシューベルトか」
「ああ。午前二時過ぎまで悪戦苦闘していたよ」
「即興曲を片手で…か」
「兄貴には感謝してるよ。この部屋は防音効果に優れてる」
半年程前まではほとんどの人間に見せる事のなかった屈託なき笑顔が、今、弟にある。
現実離れした残酷な運命の中にもダイヤモンドに劣らない輝きの時間が、しかしやはりロウソクの灯火のように儚い時間が流れていた。
「歩、お前から音楽を奪ったら何が残る」
「そうだな…。ま、病院の個室にグランドピアノを置くという発想自体はどうかしてるけどな」
「せめてもの償い…というやつかな」
兄は顔を窓の方へ向ける。
「そんな顔するなよ。俺はもう兄貴を恨んだりしないさ」
「そうか…」
弟は背けられた兄の表情を察していたのだ。
「睡眠はしっかりとった方がいい。己の体を大事にしないと、長生きも出来なくなる」
「長生き…か。ところで兄貴、職場にはちゃんと戻れたのか?」
「心配無いさ。上にはもっともらしい理由を提出してある」
少し訝し気な表情の弟に、兄は得意気に言う。
「『ずっと難事件を追っていたが、私が解決の糸口を見い出せずにいたら妙に生意気な探偵に先を越されてしまった…』と」
「それ、ある意味正しいだろ」
「…だな」
こうやって毎週日曜日なると、鳴海清隆は弟の見舞いにやって来る。
弟の鳴海歩はあと3年半も生きられるだろうか…。
非現実的だと思われるかもしれないが、彼は清隆のクローンなのである。
したがって歩の細胞には多少欠陥がある。
それが様々な症状として現れ出してから今に至るのだ。
清隆はある種の天才であり、医学関係の知識も並外れている。
だが、そんな男にさえ歩を救う事は出来ないのだ。
だから一週間に一度、穏やかに言葉を交わすこの時間だけが、清隆が弟にしてやれる全てであった。
「徹夜するなよ」
その日の弟は少し疲労しているようであったため、清隆はいつもより早めに病室を出た。
心地よい風が髪を撫でていく。
「…良い天気だ」
ちょうど太陽が真上に昇っていた。
久しぶりに清隆は妻が食卓を並べて待っているであろう自宅へ向かった。
普段は仕事の都合でなかなか妻と食事を共にする事が出来ない。
だから休みをとれる日曜日くらいは一緒に居たかった。
今日は運良く休みがとれたのだが、日曜日がいつも休みという訳ではない。
なぜなら彼は警視庁捜査一課の警部なのだから。
「帰って来たぞ」