裏切り-1
『雨には音がない』
ということに、ここに引越してきて俺は初めて気付いた。
俺達が『雨の音』だと思っているのは結局、雨粒が屋根やアスファルトや水溜まりにぶつかった時に出る音なのだ。
別に雨自体がザーザーと音をたてて降っているわけではない。
そんな当たり前のことを、頭では理解しているつもりでいても、実際には案外わかっていないものなのだ。
防音壁と二重ガラスに囲まれた地上8階のマンションの一室からは、屋根をうつ雨音も、地面を洗う雨音も、どちらもほとんど聞こえない。
ここに住んでもう二年がたつが、いつも通り身支度を整え、出掛けようとして玄関をあけた時に初めて大雨に気付き、呆然とすることがいまだにある。
だから今日も、玄関を開けてずぶ濡れの相原を見たとき、とっさに『雨』とは思わずに、全身で泣いているのかと思ったんだ。
最近の相原は、いつも泣いてばかりいたから―――。
「ヤナ―――」
相原が、か細い声で俺の名を呼んだ。
カラスの濡れ羽のような漆黒の髪から、冷たい雫がぽたぽた流れ落ちている。
うつむいているため表情は見えないが、小さな肩が寒さに凍えているみたいに小刻みに震えている。
制服がぴったり身体に張り付くほど全身濡れそぼった相原は、いつもより一回り縮んでしまったように見えた。
「………相原」
泣くまいと一生懸命こらえながらも、しゃくりあげては嗚咽をもらす姿が、俺の胸を切なく締め付ける。
こんなにも感情をあらわにする相原を、俺は初めて見たかもしれない。
ヤマト……俺言ったよな?
今度相原泣かしたら
許さねえって。
それなのに
どういうことだよ……。
「ヤマトと…なんかあった?」
知られてしまったのか……。
『あのこと』を……。
『何があっても
相原をちゃんと守る―――』
あのヤマトの言葉は嘘だったのか……?
それとも……
虐待を受けた身体は
そんなに汚らわしいか――?
無意識に握りしめた拳に、ぐっと力がこもっていた。
場合によっちゃヤマトをボコボコに殴ってやらなきゃ気がすまねぇ。
「……も……信じ…の……疲れ……ちゃった……」
途切れ途切れにやっとそれだけ言って、相原は痛々しい笑顔を浮かべた。