アイカタ―――後編-8
シーナはしばらくの間呆気にとられたように俺を見つめていたが――――やがてひどく申し訳なさそうな顔で、おそるおそるこう言った。
「……最後て……お前、なんか勘違いしてへん？」
「………？」
「来月、早速近畿漫才コンクールあるやん。俺もう勝手に申し込んだんやけど……」
「……は？……来月？来月て……お前もうＫ大行ってるやん……」
「いや……せやから……俺……Ｋ大行かへんし……医者にもならへんやん」
理解力の弱い子供に言い聞かせるように、ゆっくりと、しかしハッキリとシーナが言い切った。
「……え？………今……何て？」
「え？……あれ？……俺、言うたよな？お前とお笑いやるためにＫ大受けるって」
「――――は？なんやそれ？」
第一、お笑いやるためにＫ大って……意味わからへんし。
頭が混乱して、シーナの言っている意味がさっぱりわからない。
「いや……せやから……Ｋ大合格が、親父との約束で……」
「……約束？……」
「せやし………去年のコンクールの後……俺、本気で芸人目指したい――って親父に言うたやろ………」
「―――えっ！そうなん？」
「あれ？俺……ほんまに言うてへん？」
「……聞いてへん……」
なんと去年の春の段階で、シーナはもうすでに芸人になりたいという意志を固めていたというのだ。
「ほな……おまえん家は？……病院どうすんねん？」
「……まぁ……妹か……その旦那に継いでもらうつもりやけど……」
「……旦那て……お前の妹まだ中２やん……」
俺が言うのも変やけど………そんなんでええんか？！
あまりに大胆すぎるシーナの考えに、俺のほうが心配になる。
当然のことながら親父さんからはこっぴどく叱られ、猛反対にあったんやろう。
シーナの話によれば、
『お前は自分の立場をわかってるんか。面白おかしく好きなことだけやればええような安易な人生を選ぶな！』
そう怒鳴り付けられ、なんとその場で殴られたらしい。
もちろんお笑いの道が医者より安易やとは、俺は決して思わへん。
だがシーナの親父さんにしてみれば、お笑い芸人などというふざけた職業は、チャラチャラしたええ加減な人種がやるもんやというふうに思えるんやろう。
そこで、シーナが自ら親父さんに申し出た条件が、医学部の中でも超難関であるＫ大の医学部に合格したら、お笑いを続けさして欲しいということやったらしい。
親父さんにしてみれば、Ｋ大医学部に合格すれば、シーナはお笑いなんぞバカバカしくなって医者を目指す気になるやろうと思っていたに違いない。
しかし、目の前のこのお笑いバカは―――純粋に、お笑い芸人になるためだけに、あのＫ大の医学部に合格しやがったんや。
「んな話―――――俺、一つも聞いてへんで」
俺は地の底から響くような低い声で言った。
「え？えぇ？……ほんまぁ？俺……てっきりお前に言うたと思ってたんやけどな……」
しどろもどろのシーナ。
「―――初耳やわ！俺一年間ずっと悩んでてんぞ？なんでそんな大事なこと勘違いすんねん！」
イラっときて思わず声を荒げた俺に、シーナがペコッと頭を下げた。
「スマン！………あの頃……俺……親父と毎日ケンカして悩んでて………ようお前の夢見てたんや………『一年待っててくれ、必ずお前の隣に戻るし』……って、お前に頼み込む夢ばっか何回も見て…………」
「俺の…夢………？」
その尻のむず痒くなるようなシーナの告白は、何故か俺の胸をカーッと熱くさせた。
「……ほんで……夢か現実か……わかれへんようになったん……？」
「………どうも……そう……みたいやな……」
目の前で恐縮して頭を掻くシーナ。
コイツがこんなに無防備に焦った顔を見せるのは珍しい。
前から薄々感づいてたけど……コイツ頭ええ割に、実は結構天然やねんな。
「ジャッカス」ってコンビ名、お前は俺にぴったりや言うたけど、むしろお前のほうがぴったりなんちゃうか？
怒りよりも呆れる気持ちのほうが―――いや、ほんまはもっと別のあったかい感情が、俺の心をゆっくり満たしていくのがわかった。
「……ま……そんなわけやし……これからもよろしくたのむわ……ってことで」
もごもごと照れくさそうに言いながら、シーナはいつも愛用している肩掛けかばんにごそごそと手を突っ込んだ。
『―――え？まさか婚約指輪？』
思わずとんちんかんな心配をして身構えた俺の目の前におずおずと差し出されたのは――――俺がずっとシーナに渡したいと思いながら渡せなかった、あの『芸人養成学校』のパンフレットやった。
俺が持っているのよりも、もっと色褪せて、角がなくなるくらいにすりきれたパンフレット。
折り筋のいっぱいついたボロボロの冊子から、シーナの一年ぶんの思いが苦しいくらいに伝わってきて――――俺は思わず差し出されたその手を強く引き寄せ、力いっぱいシーナを抱きしめていた。
「………アホ………」
それだけ言うのが精一杯で、あとは胸がいっぱいになった。
シーナと一緒に芸人を目指せる。
昨日までは儚く遠かった未来の夢が、今確かにこの腕の中にある。
その夢が決して覚めてしまうことがないように、俺はもう一度強くシーナの肩を抱きしめた。