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深淵に咲く
【純文学 その他小説】

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深淵に咲く-13

舞台に関わった人達へのお礼参りが終わり、美優は公民館の外の縁側に腰を下ろした。ひんやりとしたコンクリートの感触が皮膚を伝う。空を見上げると紅が紺を帯び始めていた。じっとしていれば色の変化を感じられそうだった。
「美優お姉ちゃん」
空から視線を降ろすと、綿のスラックスに白のパーカーを着た少女が目に入った。パーカーは夕日色に染められている。舞台衣装から私服へと着替えを済ませた茜だった。
「茜ちゃん、お疲れ様。舞台、すごくよかったよ」
「あ、ありがとう……」
褒められて僅かに赤面した茜は、パーカーのポケットに両手を突っ込んで美優の隣に腰を下ろした。
「茜ちゃん、あのさ」
「うん?」
「茜ちゃんが前に言ってた『一晩しか咲かない花』だけど……」
そこで言葉を句切った。美優はほんのこの次に、何を言うべきか考えていなかったのだ。
『人を傷つけちゃいけない』。多分そんなことを言わなくても、茜はもう気がついているだろう。
美優はそう思い、ふっと微笑んだ。
「見つけられるといいね」
「……うん」
この時、初めて美優は茜の笑顔を見た。俯いた茜の白い肌は僅かに紅潮していた。
茜が信じる花がどんなものなのか、美優は目を瞑って瞼の裏に描く。
白い雄弁を開き、平原を走る一迅の風が花びらを散らす。
葉の擦れる音が聞こえ、
月の光の下、
花びらが淡く反射しながら風に舞う。
体に風を感じ、
花の香りが鼻腔をくすぐる。
肺いっぱいに吸い込みたくなる香りをリアルに想像し、美優は瞼を開いた。
見上げると空の紅は既に消え、紺が支配していた。
一番乗りといわんばかりにマイナス等星が明るく輝く。
縁側に腰を下ろした二人をそっと風が撫でる。
美優はその風に、花の香りを感じた。
瞳を開くと、垣根の向こう側に拘束具を身に纏ったシスターを発見した。彼女に振ろうと上げた手が、美優の胸の辺りで止まる。シスターは遠くてはっきりと見えないが、それでも彼女がどんな表情をしているのか、美優にはわかってしまった。
――ありがとう。
――さようなら。
美優はシスターへと頷く。
まるで、自ら産み育てた子供を慈しむような表情で、シスターは微笑んだ。
美優はその表情を脳裏へと焼き付ける。
瞼を閉じる。息を吸い、ゆっくりと深く吐き出す。
再び瞼を開いた時にはもう、シスターの姿は消えていた。
咲いたよ、シスター。私の中にも。
震える唇から吐き出される息は熱く、視界がぼやけてゆく。それでも意識的に呼吸を整え、落ち着くよう自らを戒める。
そんな美優を、不安そうに茜が見つめる。美優が今にも泣き出してしまいそうだが、そういう時にどうすればいいのか、わからないという風な表情だ。
狼狽えている茜に気付き、美優は彼女の手を取り落ち着くようそっと力を込める。
「美優お姉ちゃん、その……大丈夫?」
「うん、大丈夫」
それは茜にではなく、自分に言い聞かせたかった言葉なのかもしれない。美優は胸の中でこみ上げそうになるものを必死に食い止め、ぎこちない笑顔を浮べた。
「茜ちゃんには特別に、昔託児所にいたシスターの話をしてあげる」
「シスター?」
「そう。修道衣を身に纏っていて、子供達が悪戯をすると拘束具を巻き付ける。危ない人に思えるけど、本当はすごく、私たちの事を思ってくれている、優しい人の話」
美優は思うまま口を開き、茜は彼女の話に熱心に耳を澄ませた。
閉館時間となり、所長が彼女達に帰りなさいと叱るまで、深淵に咲いていた花の話は途切れることなく続いた。


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