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あなたをずっと忘れない
【家族 その他小説】

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あなたをずっと忘れない-2

 当時、小学四年生だった私は他のみんなと比べて随分おとなしい子供だったと思う。仲のよい友達はもちろんいたし、遊びにだって出掛けたけれど、それでも学校が終わればあとは自分の部屋にいることの方がずっと多かったと記憶している。そしてクロがやってきてから、その傾向が強くなったことも。
 クロは、もらわれてきてからもけっこうよく鳴いた。
それまでいたペットショップが恋しかったのかもしれないし、あるいは全然違う理由があったのかもしれない。とにかく、我が家へきて最初の三日間は昼夜問わずひらすら鳴き続けた。
幸い隣近所とは少し離れていたので苦情がくることはなかったけれど、おかげで私たち家族は寝不足になり、特に毎晩仕事で疲れて帰ってくる父にとって、彼の声は苦痛の対象でしかなくなっていたと思う。父がそれを直接言葉にしたわけではない。ただ、子供ながらに私は父の苛立ちに気付いていた。
それからさらに数日が経つと、ようやく慣れてきたのかクロもいくぶんおとなしくなった。相変わらず、鳴きだすとなかなか止まらなかったけれど、その頻度は最初に比べてかなり少なくなったように感じられた。
ある晩のことだ。
尿意を催した私はふと目を覚まし、半分眠っているような足取りでトイレに立った。
両親もとっくに寝静まっている時間帯だ。
明かりをつけると眩しいので、足元に注意しながら薄闇の中をそっと移動した。
周囲にはかなり気を配ったつもりだったのに、私のたてるかすかな物音や気配は、彼にはしっかり伝わっていたらしい。玄関から身を乗り出してこちらをのぞいていたクロは、トイレから出てきた私を見つけるなり、喉を鳴らすように細く声をあげた。
驚いて足を止めた瞬間、クロと目が合った。
何かをひたすら期待するように、つぶらな瞳が真っ直ぐ私を見つめ返してくる。このまま黙って部屋に戻ろうとすれば、彼が私の背中に向かって鳴くのは間違いない。そうすれば、父も母も起きてくる。叱られるのは彼だ。迷ったのは、ほんの数秒だった。
私が歩み寄ると、クロはくるんと巻き上がった尻尾を振り回し、今にも飛びついてきそうなくらいはしゃいで見せた。
「吠えちゃ駄目だめだよ」
 人差し指を口元に当てながら、私はクロの前で膝を折った。
 伸ばした手のひらに、小さな頭を摺り寄せてくる。柔らかい毛の感触が気持ちいい。私は彼の顔を両手で包み込むようにして、何度も優しく撫でた。
目を細めながら私にされるがままになっているクロが、たまらなく愛しかった。
 そこから先は、あまりはっきりと記憶に残っていない。
 次に瞼を持ち上げると目の前はすでに明るくて、それが朝日によるものだという考えに至るまで数秒、そして床の冷たさを全身で感じながら、いつの間にか自分は眠ってしまっていたのだと気がつくのに、さらに数秒を要した。
ふと左手に暖かなぬくもりを感じた。
クロだ。
「クロ」
 小声で呼んでみる。
 彼は身じろぎひとつせず、気持ちよさそうに寝息を立てていた。
 


 思えば、あの日を境にして彼はあまり無駄に鳴かなくなった気がする。そもそも彼にしてみれば、無駄に騒いでいるつもりなんて一度だってなかったはずだ。クロの中にあった彼なりの事情を推し量ることはもう出来ないけれど、きっと私たちに訴えたいことがあったに違いない。
 不意に幼い彼が丸まるようにして眠っていた姿を、思い出してしまい、言いようのない痛みを胸の奥に感じた。私は吸い込んだところで呼吸を止めた。
こみ上げてくるものをなんとかやりすごし、ゆるゆると息を吐き出す。もう何度、こんな気持ちにさせられるのだろう。果たしてこの痛みに慣れる日はやってくるのだろうか。
私は憂鬱になりながら、静かに目を伏せた。
覚えていよう。息をゆっくりと吸い込みながら、私は思う。
忘れちゃいけない。あの子がこの世に生を受け、今日まで私の記憶に残してくれたいくつもの思い出の、なにひとつ取りこぼすことなく、私は未来へと持っていく。きっとそれは、私があの子にしてやれる唯一のことに違いない。覚えてさえいれば、あの子は思い出の中で生き続ける。触れることは叶わなくても、感じることは出来るはずだ。
「クロ。ありがと。……さよなら」
 そう呟くと、私は零れ落ちる涙をシャツの袖で拭った。

end


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