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多分、救いのない話。
【家族 その他小説】

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多分、救いのない話。-6--1

「〜〜♪」
 社長は今日は機嫌が良かった。社長の感情や真意は掴みにくいが、流石にもう十五年、いや、十六年になる付き合いだ。流石にそれぐらいは分かる。ノートパソコンのタイピングの音も軽やかに聞こえるのは、火口にとっても気分がいい。
「機嫌良さそうやなぁ?」
 火口は一応今も仕事中だが、現在は『社長を自宅まで送る』というのが仕事であり、現在車内には自分と社長しかいない。秘書がいると流石にこんな砕けた話し方は許してくれないが、今はちゃんと答えてくれた。
「ええ、年末年始に二十日ほど休みがとれそうなの」
「マジで?」
 大したことのないように言っているが、実際は大変なことだ。社長の下には優秀な人間は多いが、社長がいないと出来ない仕事も多い。
「調整大変やったやろ?」
「まあね。おかげでここ数ヶ月は働き詰め」
「……ああ、なるほどなぁ」
 最近の仕事量は特にハンパなかったが、そうか休暇の調整かと納得した。
「でもなんとか今やってる仕事も目処が立ちそうなの。やっと慈愛にも話せるから」
「なんか計画してるん?」
「うーん、慈愛の意見を聞いてからね。でも、何処か旅行に行こうかなって。グアムとかタヒチか、暖かい所がいいわね」
「ええなあ。俺も連れてってやぁ」
 火口のわざとらしい甘えた声に苦笑しながらも、
「だぁめ、慈愛と二人で行くの。でも今日はご馳走してあげるから」
 応える声も、いつもより穏やかで優しげだ。しかし社長の手料理を食べるのは何ヶ月ぶりだろう。時刻は夕飯時の七時を過ぎ、腹が減っていることも相俟って、つい期待してしまう。
「んじゃあ、買い物してくか?」
「ううん、材料はもう家にあるから。このまま家に帰るわ」
 了解っ、と火口も心なしか嬉しげな声で返しながらハンドルも軽やかに切っていく。
 最悪は既に始まっていることを、この時は彼女ですら、気づいていなかった。
 自宅前に着き、社長は自分の娘にメールを打ち始めた。鍵は勿論持っているが、「おかえりなさいぃ!」と母を迎える娘の顔は喜びに満ちていて、鍵を使いたくない理由は何となく分かる。この母親が歪みきっていることさえ除けば、理想の母娘なのになぁと、『最も大事な部分に気付かなかった』ことが、後の火口の運命を決めてしまったのかもしれない。
 メールを送信してから五分。鍵を使えばすぐに入れるのだから、正直ちょっとイライラしていた。社長に提案してみる。
「メグちゃん、メールに気付かなかったんちゃう? 鍵開けて入ろうや」
「…………」
 沈黙をもって返答した社長の顔が妙に感情がなく、それ以上は強く言えなかった。何か考え込んでいるようだが、火口にその思考がわかるはずもない。
「…………」
 何も言わず、無言で鍵を取り出し、玄関に入る。戸惑いながら火口も続いた。
(……?)
 玄関に入ると火口も違和感を覚えた。しかし社長は奥に向かい、おかげで詳しく探る手間をとらずに違和感は異常の前兆だということを知る。

「――慈愛?」

 母の感情が感じられない呼びかけに、娘が応えることはなかった。
 違和感の正体は、つまり気配の消失。
 今、この家に、慈愛はいない。
「火口?」
 社長はいつもと同じ様に……、いつも以上に透明な微笑を浮かべながら。
「“何か”あったら許さないって」
 ――言ったわよね?と。先程よりもずっと優しげで穏やかな、嬉しそうな愉しそうな、まるで全ての現実から乖離したような、そんな声音に。
 今の彼女に、一切の言い訳が許されないことを、火口は悟った。


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