恋の奴隷【番外編】―心の音⑦-2
「結城さんと椎名君ってほんと仲良しだよね」
「うんうん、お似合いって感じ」
その後、教室へは戻らずお手洗いに寄ったところ、そんな会話がいきなり私の耳に飛び込んできて。思いがけない所で自分の名前を不意に呼ばれて、びくりと身体が反応した。
「だよねぇ…あたし椎名君のこと狙ってたのになぁー」
みんなが噂しているようなノロとの関係を否定したい気持ちと、聞かなかったことにしてそのまま肯定したい気持ち。そのふたつが私の心の中でぐるぐると渦を巻いていた。頼りない薄ら笑いを含んだその声は、冗談のようにも聞こえるが、本気のようにも捉えることができる。その時点で、私の気持ちは後者が膨らんでいた。理由なんてちっとも分かりはしないのだけれど。なんて私はズルイ人間なのだろう。そう小さく呟いて、私は自嘲気味に笑った。しかし、否定やら肯定以前に、なんだか盗み聞きしているみたいで罪悪感からか、私は個室から出るタイミングを完全に失ってしまったのだけれど。
「じゃあさ、椎名君の弟にいけばー？」
個室でひっそりと身を潜めていた私は、飛び込んできた“弟”という新しいフレーズに自分の耳を疑った。私の記憶では、ノロには弟じゃなくて、１つ下の妹がいたはずだから。確か名前は…
「あー葉月君？」
そうよ、葉月【はづき】だったわ。え！？弟！？
いつも物静かで、滅多に笑わない子だったのだが、たまに見せる笑顔は天下一品。ちょこんと左右の頬に出るえくぼが、きゅーんっと胸をときめかせるのだ。たまにしか顔を合わすことはなかったけれど、私は一人っ子だったからか、まるで自分の妹のように可愛がっていた。というか、ちょっかいを出していたという表現の方が正しいのかも知れない。笑顔が見たいばかりに、当人からしたら迷惑だったかもしれない。
「葉月君もカッコイイけど…なんか近寄るなオーラ出てるし」
「確かに。兄とは正反対だよねぇ」
そんな他愛もない少女達の会話は扉が開く音と同時に遠のいて、辺りが静かになったところで、私もようやく個室から抜け出した。
結局のところ、私の頭に浮かび上がった疑念を払拭することはできなかったが、ノロの家に行ったら会えるかも知れない。
その時の私は、懐かしさからそんな淡い期待を抱いていたわけで。これから起こる災難なんて、これっぽっちも予期していなかったのだった。