第四章 ゲームセット-1
男はビルを飛び出すと、大急ぎでタクシーをつかまえた。
雨は、いつのまにかあがっていた。
待ち合わせているレストランの地名を告げると「ふーっ」と息をついてシートに身体をあずけた。
色々と苦労は多い仕事なのだが、この瞬間が何とも言えない快感なのだ。
だが、その幸せも長くは続かなかった。
何かの事故で、急に車が動かなくなってしまったのだ。
時計の針は一時半をまわっていた。
男の背中から又、冷たい汗が流れてきた。
男は彼女のことを心から愛していた。
同じ仕事場にいてよく気がつくし、男にとって優しい天使であった。
数回に及ぶデートのキャンセルにも、寛大な精神で許してくれていた。
でも今度という今度は、彼女も我慢できないであろう。
もし二時に遅れた場合、どうなるか自信がなかった。
「A4一枚の宣告文」に対して、何枚の謝罪文を書かなければならないのであろうか・・・・。
それよりも、それを受け取ってくれるかどうかも、わからないのである。
案の上、携帯電話はつながらない。
時計の針が一時四十五分を過ぎた頃、男はタクシーを降りた。
渋滞に並ぶ車達の横をすべるように抜け、歩道をひたすら目的地まで走った。
雨があがりで水たまりが残る街は、男を今度は汗のシャワーで包んでいった。
もはや、男の頭の中には天使の事しかなかった。
ビルのデザインよりも、自分の恋の設計の方が大事だった。
あと5分・・・。
まだ、目的の建物は見えない。
信号の赤色が、これ程恨めしく思えた事はなかった。
「ゴメンナサイッ」
何度、この言葉を発して人をよけたであろう。
2時を過ぎた。
まだ目的地は遠い。
ようやくレストランに着いたのは、四十分も過ぎた頃だった。
男は昨年観た、サッカーのW杯のアナウンサーが言っていた言葉を思い出しながら、レストランの扉を開けた。
「日本は3戦全敗でしたけど、よくやりました。
次回に期待しましょう・・・」
そんな慰めでしかない言葉が、頭をかけめぐる。
かすかな期待を込めてながめた店内には、目的の天使はいなかった。
店内に整然と並んだ白いテーブル達が、彼にゲームセットを告げているようだった。
肩をうなだれて店を出た男は、汗だくになったスーツを脱ぎ、雲から顔を出した太陽をまぶしそうに見上げた。
その時、いたずらっぽい瞳を持った天使が、歩道の木陰から姿を現わした。
「わー、びっしょり。
すごい汗・・・」
透きとおる声に振り向くと、可愛い唇から白い歯をのぞかせて、彼女が立っていた。
「えっ、どうして・・・?」
「もう・・。
何杯飲んだと思ってるのよ、コーヒー・・・。
さすがに恥ずかしくて出てきちゃったわ。
今日は覚悟しなさいよ。
思いっきりおごらせちゃうから・・・」
そう言いながらも、優しくハンカチで額の汗を拭いてくれている。
雨のシャワーを浴びたあとの街並みは、少し若返ったように美しく見え、太陽の光をガラスから反射させていた。
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「あの・・・これ、オーナーの奥さんから」
レストランに入り直して食事を終えた時、男はオーナー夫人からもらった包みを渡した。
彼女がおずおずとケースを開けると、大きな瞳を輝かせて言った。
「わー、これ今、すっごく流行っているアクセサリーよ。
芸能人でも手に入りにくくて、プレミアがついてるの・・・うれしいっ」
天使の笑顔を見て、男はホッとため息をついて思った。
つらいけど、もう少し、この仕事をがんばってみようか、と・・・・。
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テーブルに広がっている図面を見つめながら、オーナーが妻に聞いた。
「どうして、着工日をのばしたんだい?」
妻は二人分のコーヒーをテーブルに置いて、カップを取り一口飲むと、うれしそうに答えた。
「私も・・・・ね。
若い頃、あなたと中々デートできなくてイライラした事があったの・・・。
たまにデートできた時、すごくうれしかったわ。
だから・・・」
オーナーは少し照れくさかったのか、慌ててコーヒーカップを手に取ると、一口すすった。
香ばしい香りが鼻をくすぐる。
そして男が作ってきた、苦心の模型と散乱している書類の海を眺めた。
テーブルの上に広げられた、何枚かのA3サイズの図面の間に一枚、男の彼女がしたためた「A4サイズの宣告文」がチラリと、のぞかせていた。
雨やどり「A4サイズのラブレター」 完