智司（五.）-1
智司は三週間ほど寝床を離れることができなかった。高熱は一週間以上さがらず、熱が下がってからもダラダラと体調不良がつづいた。
そのあいだ、母は身を粉にして智司の看病をした。買い物以外の外出もほとんどしなかった。熱が少し下がってくると、薬といっしょにおかゆや雑炊をつくって持ってきてくれたが、智司は一口も手をつけることなく、母の顔も見ようとしなかった。母は何も言わず食器を持って部屋を出て行った。それでも毎日食事を運んでくることを欠かさなかった。
やがて体調が回復してくると、母に対する怒りや失望も少し和らいできた。そして空腹も感じ出したので、とうとう母の持ってきたおかゆに手をつけた。そのときの母の嬉しそうな顔は忘れられない。
病気で寝込んでいるあいだ、母とはほとんど会話を交わさなかった。母もあえて自分から話しかけてくることはなかった。
眠りからさめると、ベッドの端にうつぶせになって眠っている母の姿を見かけることが何度もあった。またあるときは夢うつつに「ごめんなさい、ごめんなさい」と涙声でつぶやく母の声を聞いたこともあった。
一ヵ月が経つころ、ようやく体調も元に戻り、学校にも通えるようになった。母との関係も、以前ほどではないにしても、ごく自然に振る舞えるようになっていた。
その後、母が男と会っているような雰囲気はまったくなかった。あれほど冷淡だった姉の態度も、近頃は鳴りをひそめている。
このまま何事もなく、平穏に過ぎてゆくかと思われたそのとき、とうとう審判の日がやってきた。
よく晴れた日曜日の午前、とつぜん玄関の呼び鈴が鳴り、母が出ると二人の男が立っていた。一人は見るからに堅苦しそうな背広姿の男、もう一人は対照的にジャケットとジーンズというカジュアルな恰好をした男だった。背広姿の男が名刺を差し出して自己紹介をした。男は自ら弁護士と名乗った。そしてもう一人の男は探偵事務所の職員だと紹介した。
「本日、御主人は御在宅でしょうか？」
「……はい」母は表情を変えることなくそう答えた。
それからリビングのテーブル席に母と父がならんで座り、向かい合わせの席に弁護士の男と探偵事務所の男、そして姉がならぶ形で座って話し合いがはじまることになった。
探偵事務所の男がまず不倫調査の依頼を姉から受けたということから話しはじめた。費用はこれまでに貯めたアルバイト代とお年玉、お小遣いをすべて支払ったという。それを知らなかった父と母は驚きを隠せなかったようだ。
父が厳粛な声で、「智司、おまえは二階の自分の部屋に行っていなさい」と言った。
智司は不満で腹が立った。子ども扱いされたこともそうだし、家族の中でまるで自分だけが除け者にされたような気がしたのだ。しかし父の真剣な顔つきをみると逆らうわけにもいかず、智司はすごすごと二階の自分の部屋に上がっていった。
それからどういった話し合いが行われたのか、智司は知らない。だけど後に姉が少しだけ詳細を教えてくれたことがある。
姉はだいぶ前から母に愛人がいることに気がついていた。もちろんそのときはまだ証拠や確信があったわけではないが、なんとなく勘がはたらいたのだと姉は言った。
はじめは父に相談するか迷ったが、もともと姉は気が強く独立精神が旺盛な性格である。確証がないかぎり父に報告するのは得策ではないと考えた。
そのときから姉はインターネットで親の不倫に関する情報をいろいろ調べ上げ、口コミで評判の探偵事務所で不倫調査の依頼をすることにした。
しかし姉はまだ未成年、依頼を受け付けてくれるか不安であったが、幸いにもその事務所は代金さえ支払ってくれれば依頼人の年齢には頓着しないところだった。
とはいえ費用は決して安くはなかった。今まで貯めた貯金すべてを支払ってもほんのわずか足らなかった。そこで姉はバイト仲間や親しい友達に少しだけお金を借り、なんとか支払う段取りがついた。あのとき、探偵事務所の職員がその借金のことを話さなかったのは、両親と姉の関係を気づかってくれたからなのだろうと姉は述懐する。
調査の結果はすぐに出た。母は頻繁に男のアパートに出入りしていたのだ。その瞬間をカメラに収めると、そこからはもうくずれてゆくのが早かった。あらゆる証拠が集められ、姉と何度か話し合いをした末に、とうとう決行の日が訪れた。