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林檎
【純愛 恋愛小説】

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林檎-1

凍るような寒さを、漆黒の夜空とそこに浮かぶいくつかの雲が包む。街灯がほとんどない薄暗い路地から表通りへと抜けると、視界が一気にひらけ、僕はそこで足を止めた。
右手に建つ赤レンガ調の巨大な時計台は午後の十一時を回っている。都会の中心部ならともかく、そのはずれならとっくに静寂の訪れるような時間帯だ。
しかし細い道から現れた僕に迫ってきたのは、あふれかえる人波と、きらびやかなネオン、大音響で空気を振動させる音楽だった。 喧噪に飲み込まれそうになりながら、僕は歩き始めた。向かった先には、ばかみたいな数の電球でライトアップされたクリスマスツリーがある。
今夜の、クリスマスイブの主役だ。
向こうから歩いてくる人達にぶつからないように気をつけて歩きながら、そういえば、と不意に思い出す。林檎はクリスマスが大好きだった。クリスチャンでもないくせに、いつもこの時期になると調子っぱずれなジングルベルを鼻で歌っていたものだった。
「ほらほら眠斗も歌って。ふんふんふーん」 高揚して頬を赤く染めていた小柄な林檎。前髪を真っすぐに切り揃え、その下にはこぼれ落ちそうなくらいに大きな瞳と小さな鼻に薄い唇。透けるように白い肌。まさか彼女の、あの綺麗な肌が病的なものが
理由だったなんて知らなかった僕は、彼女の白さを何度褒めたか分からない。
ツリーの下までくると、それが本物のモミの木ではないことが分かった。プラスチック製だろうか。真緑の葉が、瞬く電飾に変に反射している。だけどそれが、余計にツリーを幻想的な美しさで浮き彫りになっていたのも確かだ。僕は天を仰ぐようにそれを見上げた。 「眠斗は生きるんだよ」
去年のクリスマスイブの事だ。
病室で僕ら二人は聖夜を祝った。林檎は以前に比べてさらにやせ細り、それまでのような肌の美しさも消えてしまっていた。
「なに言ってるんだよ。突然」
胸に突き刺さるような痛みを感じながら、僕は言った。あえて笑顔で。そこは外が遠くまで見通せる七階の個室だった。僕だってばかじゃない。個室を取れる人間がどういう人かは知っていた。金持ちか、もしくはもうすぐ命の灯火が消えようとしているものか。たいてい、そんなところだろう。
「ありがとうね。毎日、お見舞いにきてくれて。おかげで楽しかった」
窓の外を見ながら、林檎は言う。
隣りの丸椅子に腰掛けながら、僕はひざの上でこぶしを握っていた。なんてこと言うんだよ。楽しかった、なんて。まるで最後みたいに言うなよ。この世に残す言葉みたいで、それがとても痛かった。
「明日もくるぞ。明後日も、明々後日も、その次の日も、次の日も・・・」
言ってて涙が出そうだった。自分の声が、震えそうになるのを必死でこらえながら、僕は笑う。
「ああ、でもその頃には退院してるな。きっとさ。そしてら二人でまた街へ行こうぜ」
語尾は、ほとんど声になっていなかった気がする。耐え切れず立ち上がり、
「便所、行ってくるわ」
ドアの前まで行った所で、林檎が僕を呼び止めるのを聞いた。
「眠斗。大好き。ありがとう」
結局、彼女はそれからすぐに逝ってしまった。彼女を愛していた、たくさんの人達を残して。今思えば、彼女は自分の死期を僕らや医者よりも正確に知っていたに違いない。
一瞬、額に冷たいものが触れた。
雪だ。静かに、囁くように舞落ちてくる。僕は空を見上げたまま、そっとまぶたをとじた。行き過ぎる人々の足音と笑い声、話し声。取り付けられたスピーカーから流れるジングルベルが、林檎の下手くそな鼻歌と交じりあり、やがてシンクロする。まぶたの裏側では、エプロンをつけた彼女が僕に背を向けたままごきげんな様子で、ケーキに生クリームを落としている。
林檎。
心の中で呼んでみると、彼女が笑顔で振り返る。林檎、会いたかった。林檎。林檎。


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