投稿小説が全て無料で読める書けるPiPi's World

薫風
【エッセイ/詩 その他小説】

薫風の最初へ 薫風 0 薫風 2 薫風の最後へ

薫風-1

 群馬県甘楽町小幡。ここを訪れたのは数年前のことである。
 1615年に織田信長の次男、信雄(のぶかつ)が統治して以来400年余、連綿と息づいてきた小さな城下町。以前から訪ねてみたい町であった。観光バスが巡るような遺物や旅行誌を飾る景勝地があるわけではない。あるのは日々の生活が作り上げたあるがままの古い町並みである。
 私にとって魅力はそこにあった。観光に依存すればするほどそこに暮らす人たちの生活から歴史の匂いが薄れていく気がする。文化財として保護された建造物や景観は無論それはそれで意義があり。見ごたえのあるものだが、手を加えることなく今日に至った町並みは数少なくなっている。小幡に惹かれたのは素朴さを求める旅心からだった。

 高崎で私鉄に乗り換え、上州福島へ。そこから小一時間、汗ばむほどの初夏の日差しの中を歩いた。やがて、バッグの重みを感じ始めた頃、遠くオアシスのように現われた木々の塊が見えた。そこが小幡であった。

 ひっそりとした佇まいの中で謙虚に微笑む町……。
町に足を踏み入れて間もなく、私が抱いた小幡の印象である。長い歴史を背負いながら、誇ることなく、飾ることもなく、あたかも素顔をそのまま見せているような静かな町並みがそう感じさせたようである。
 進むにつれてせせらぎの音が近くなり、それは名水雄川堰の涼やかな流れである。生活用水として雄川から引かれ、その豊な流れに沿って小幡の町は在る。

 桜並木の緑陰を爽やかな風が吹き抜けて私を包んだ。古い商家や養蚕農家の建物が軒を連ねて昔日を偲ばせる。
 歩き始めてほどなく町家が途切れ、武家屋敷が残る一画に出た。その一帯にある5軒の広壮な屋敷には今も子孫が暮らし、古の面影を残しつつ町の風格を作っている。
 大名が通ったといわれる道幅の広い中小路を抜けると大名庭園『楽山園』の景観が周囲の山々を背景に広がった。
 ところで、時間の経過とともに、私がこの町に抱いた初めの印象は、喧騒から隔絶された静謐な雰囲気のせいばかりではないと思うようになってきた。この町に住む人たちそれぞれが素顔を見せているように感じられてきたのである。旅人を意識せず、排他的な目を向けることもない。通りすがりに柔らかな会釈をくれる。『よそ者』に対する構えがなく、物腰が何とも自然なのである。
 風土や歴史に育まれた何かが人々を鷹揚な心にしているのだろうか。旅人の感傷かもしれないが、私はとても心が和み、旅情に浸った。そして散策を続けるうちにさらに嬉しい出来事が待っていた。
 
 ある旧家を探していると中学校に突き当たった。校庭に沿って道を辿る。土曜日とあって部活動の子供たちが元気に走り回っていた。
 テニスコートにさしかかった時のこと。声を張り上げていた男の子が私に気づいて振り返った。そしてきちんと姿勢をただすとフェンスの向こうでちょこんと頭を下げた。
「こんにちは!」
元気な声である。隣で素振りをしていた子も同じく向き直った。
「こんにちは!」
照れくさくなるほど大きな声に歩みを緩めて微笑んだ。
 私は彼らに挨拶を返しながら、学校の指導が行き届いているのだなと感心して通り過ぎた。学内ならともかく、外を歩いている見知らぬ旅人に向けられたのである。そして帰路、私は他の生徒たちからも2人、3人と若い声をかけられた。その自然な振る舞いは実に子供らしく、素直で、また、大人への表敬を感じさせるものだった。そのさりげない行為は、強制や昨日今日の指導で身につくことではないだろうと思われた。長く受け継がれた方針でもあるのだろうか。……

 そんなことを考えながら町を離れ、徒歩で富岡市に向かった。当時、世界遺産暫定リストに登録されて話題になっていた富岡製糸場を見学するためである。甘楽町とは隣接していてさほどの距離ではない。
 30分ほど歩き、富岡市内に入って間もなくのこと、後方から自転車に乗ったジャージ姿の女の子の一団が迫ってくるのに気づいた。
(中学生か……)
10数名の少女たちが歩道を一列になってやってきた。これから試合にでもいくところだろうか。私は道をあけ、歩道の端に寄ってゆっくり歩いた。
「こんにちは」
先頭の女の子だった。そして次々と可愛い挨拶が私に降り注いだ。全員である。
「こんにちは」「こんにちは」……
 私は戸惑いながら1人1人の背中に言葉を返していった。ジャージの背には『kanra』とある。甘楽町の中学生であった。
 嬉しさとともに不思議な気持ちが胸に満ちてきた。彼女たちは隣町に入ってまでも見知らぬ私に挨拶を投げかけてくれた。そのことに少しく驚き、私は立ち止って小さくなっていく少女たちを見送った。

 子供たちの清々しい行為に温かな想いを味わった私は、後日、町の観光課宛てに体験した出来事を手紙に書いた。旅先で薫風に包まれたような心地よさをくれた中学生と町へのお礼状のつもりだった。
 1週間ほどして私の手元に届いたのは甘楽町長からの直筆の書簡だった。

『甘楽町小幡を訪れていただき、ありがとうございます。また、町にとっても大変ありがたく、嬉しいお手紙をいただきました。
 町の総合計画のキャッチコピーは、心が通う元気な町です。元気は挨拶からと思っています。子供たちが元気に挨拶してくれることは町の元気の基です。さっそく校長先生にお手紙のコピーをお届けさせていただきました。ありがとうございました。
 国の名勝楽山園も10年計画で整備をすすめており、間もなく完成予定です。機会をみてまたぜひご来町ください。
                           甘楽町長○○○○    』

 私はふたたび薫風に洗われた想いを味わった。
 
 


薫風の最初へ 薫風 0 薫風 2 薫風の最後へ

名前変換フォーム

変換前の名前変換後の名前