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『ティースプーンの天秤』
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『ティースプーンの天秤』-4

その事故で、失ったものはなんだろうか、そして得たものはなんだろうか、と今僕は考える。失ったものは勿論、兄だ。得たものは…今も残る右腕のやけどの痕、それと『兄の不在』だ。これは長い間をかけて導き出したひとつの仮説であり、結論だ。

僕が涙を流さなかった理由というのはそこにあるのかもしれない。

得たものに対して、失ったものが自分にとってあまりにも大きかった時、あるいはその逆の時、きっと人は涙を流す。僕の場合、失ったものと得たもの――兄という存在と、兄の不在――が、僕にとって等しく重みを持つものだったということなのだ。

僕と義姉とは未だに少しの交流がある。彼女はもう32歳になり、僕は28歳になった。
いつの間にか僕は兄の歳を四つも追い越してしまっている。永遠に縮まらない5年のはずだった。でも、来年にはもう僕のほうが5歳年上になってしまう。そして時は加速を続け、僕はどんどんと彼から遠ざかっていくのだ。

義姉は僕と会うことで、悲しみを共有できると思っている。むしろ僕の悲しみのほうが深いと感じているのかもしれない。でもそれは間違いだ。僕は、兄の死に深く心を痛めているが、悲しみじゃない。だから僕は彼女と会う度、兄の死の悲しみを引きずる弟を演じていなければならなかった。僕と悲しみを共有することで、彼女の悲しみが和らいでいくと思っていた。でもそれは大きな間違いだったのだ。

それに気付いた時は、僕が20歳になったばかりのころだったと思う。未熟で、不安定な時期だ。しかし28歳の今の僕でも、あの時の義姉にうまく反論できるとは思えない。

「人はね、誰もが幸せになりたいと思っているわけじゃないのよ。」
その彼女の台詞には、明らかにこんなニュアンスがこめられていた。「あなたもそうでしょう」と。
その時僕は気付いた。彼女は悲しみを和らげようとなんてしていないということ。彼女は僕と悲しみを共有することで、自らの悲しみをより深く掘り下げて、暗く冷たい穴にしていこうとしていたのだということ。もう埋めることができないくらいに。
「そうでしょうか。」
勿論僕は反論した。
「そうよ。」
とても、確信に満ちた返事だった。
「私はね、彼を忘れて幸せになるくらいだったら、彼のことを想い続けて泣き続けていたいの。」
「それなら…。」
僕は暫く答えを探した。
「それなら、忘れないまま幸せになればいい。」
自分の声がやけに頼りなかった。
「本当にそんなことができると思う?」
それは疑問ではなかった。確認だった。
「できます。きっと。」
でも僕はそれに逆らった。
彼女は、そう、と言って、また悲しそうに笑った。

僕は、今はもう彼女と会う時に、悲しみの外套を身にまとったりはしない。
しかしそれにもかかわらず、僕は未だに彼女になにひとつ本当のことを言っていない。


サトウの部屋には、いつも静かな音楽が液体のようにゆったりと満ちていた。
僕の知らない曲ばかりだった。といっても、僕はそれほど多くの音楽を知っているわけではないが。その曲がいつ出来たのか、誰が作ったものなのか、何も知らなかった。
それはただの音楽としてそこにあるだけだった。どこから来たのか知らないし、どこへ行こうと関係ない、ただの音楽だ。僕が耳と心を傾けない限りは僕の中に入ってくることもなく、ただ部屋の中を穏やかな潮流のように緩やかに漂ったままで、しかし僕が蓋を開いてそれに浸ってしまおうと思えば、僕の中を温かく満たした。
サトウに似ている。そう思った。


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