選択-1
初めて、グラートにきちんと名前を呼ばれたことにさえ、ディーナは気づく余裕もなかった。
媚薬に身を焼かれながら、凍りつくような不気味さにガクガクと震えているディーナを、グラートが熱に浮かされたように見つめている。
そして彼は、ニタリと口角をあげた。
「そうそう、さっき事務所でもう一つ、良い報告を聞いた。君にまとわりついていた、リアンとか言う青年。どうも怪しいと思っていたけれど、やっぱり人狼だったんだ?」
「っ!!」
「ここの用心棒にも人狼はいるんだよ。傭兵あがりの怖いオジサンでね。彼が先月から留守にしてなければ、もっと早く特定してもらえたのに。でも、ちょうど今日帰ってきて良かった。俺達が元締めと話をしている間に、忍び込もうとしたリアンを嗅ぎつけて、今は追いかけっこ中らしいよ」
もっとも……と、グラートはにこやかに続けた。
「うちの人狼オジサンが、一度狙った獲物を逃がすわけはないけど。それに彼、死体で遊ぶ困った趣味があるから、詳しい結果は聞かないほうが良いと思うな」
「リアンが……」
やはり、彼まで巻き込んでしまったのかと、ディーナは絶望に呻く。
その様子を嬉しそうに眺めていたグラートだったが、不意に顔をこわばらせた。廊下から激しい物音と怒声が響き、こちらへと近づいて来る。
「なんだ……?」
屈みこんでいたグラートが身を起こしたのと、頑丈な鍵のかかった扉が吹き飛ぶのは、ほぼ同時だった。
「ディーナ!!」
部屋に飛び込んできたのは、リアンだった。
顔や手足は人容をとっているものの、狼の耳と尻尾が出たまま。
衣服も手足も、鋭い獣の爪に引き裂かれたようにボロボロで、おまけに全身ずぶぬれ。ポタポタと滴り落ちる水滴は、血が混じって薄く赤味を帯びていた。
身動き出来ないまま、ディーナが信じがたい気持ちでその姿を眺めていると、リアンは苦しげな呼吸を吐きつつ駆け寄ってきた。
ディーナの拘束を見ると、彼は顔を引き攣らせて呻き、手枷と寝台を繋ぐ鎖を掴んだ。
太い鎖は、音を立ててあっけなく引きちぎられる。手足の拘束具も、両手で留め金をメリメリと割り開いてしまった。
彼がその昔、どうやって自身を自由にしたのかを、ディーナは実際に目の当たりにすることとなった。
もっとも、あの時はまだ小さな子どもだったから、今よりもずっと大変だったろうけれど。
開放されても、すっかり強ばった手足を満足に動かせず、媚薬に顔を火照らせて胸を喘がせていると、リアンの表情に焦りが増した。
「遅くなってごめん!」
「そ、そんな……それより、怪我して……」
リアンは額の端にも大きな裂傷を負っていた。前髪を伝って落ちた水滴が、ディーナの服に薄赤い模様をつくる。
震える腕を必死で伸ばそうとした時、リアンの背後で揺らいだ影に、ディーナは悲鳴をあげた。
「リアン……っ」
混乱した一瞬で、グラートがいつのまにか姿を消していたことにさえも気づかなかった。
己の存在そのものを瞬時に掻き消していた青年は、リアンの首筋めがけて細いナイフを振り降ろした……が、
「お前、気配の消し方は完璧だけど、惜しかったな。匂いまでは消せねーよ」
振り向きもせずにその手首を掴んで留めると、リアンはそのまま腕を一振りした。グラートの身体は壁に叩きつけられ、ぶつかる音と砕けて潰れる音が入り混じる。
陽炎のように己の存在を消すのが得意だった青年は、へこんでヒビの入った壁に、己の通った真っ赤な痕跡を残しながら、ズリズリと床へ崩れこんでいく。
即死しなかったのは奇跡だろう。
頭からいく筋もの血を流したグラートは、ぼんやりと眼を彷徨わせていたが、ディーナと視線があうと、薄い色の瞳にわずかな光が戻った。
「ハハ……やっぱ、り……荒事……には、向かない……。君を……諦めて……逃げる、べき……だった、よ……でも…………」
口元から大量の血を溢れさせながら、彼は少し困ったように微笑んだ。
「なんで、かな……こっちの、方が……良い……」
それきり、彼の口も身体も動かなくなった。姿を眩ませることもなく、きちんとその場に躯を残したまま。
リアンは口を引き結んでそれを睨んでいたが、ディーナへ振り向くと、大きく息を吐いた。
「俺の怪我は大したことない。体力さえあれば、人狼の身体はすぐ治るんだ。……ま、カミルにこれを造ってもらわなかったら、来る前に死んでただろうけど」