末路-1
バロッコ夫人は金切り声で呪詛を吐きながら、ナザリオが呼んだ男たちに引きずられて行った。
今度こそディーナは、彼女がこれからどんな命運を辿るのか、きちんと知っている。それでも黙って、遠ざかる声を聞いていた。
そもそも借金を作ったのは彼女だし、実際にその身を刻むのは、見も知らぬ処刑人だ。
だが、己の手で見えない刃を確かに振るい、夫人の命綱を断った罪は、生涯決して忘れまい。
もっとも、ディーナ自身も、それほど長い命ではないだろうが……。
「強情なイカれ女め。こうなったら、てめぇ抜きで事を進めるだけだ」
苛立たしげに吐き捨てたナザリオに睨まれて、覚悟はできていたのにどうしても足が震える。
ナザリオは安楽椅子から立ち上がると、相変わらず影の薄い部下青年に視線を移した。
「武具師を呼び出した場所には、十分な駒を配置してあるんだろうな?」
「はい。あの男が諍いなどを起こした記録などは無く、正確な力量は測りかねたので、多めに配置しました。あれなら、吸血鬼の一人に遅れをとるはずもありません」
やはり男達は、カミルが要求を断れば、容赦なく殺すつもりなのだろう。
だが、それを案じたところでディーナには出来るのは、せいぜいカミルの無事を祈るくらいだ。
「よし。俺は護衛を連れてそっちに行く。お前は……」
ナザリオは言葉を切り、争い事に向かなさそうな青年の薄い体に目を走らせた。それからディーナを指差して、溜め息をつく。
「グラート、そいつが説得に使えねぇなら、今夜はお前の出番はもう終いだ。そいつの後処理をしたら、帰っていいぞ」
「ありがとうございます」
グラートいう名前だったらしい青年は、軽く頭をさげた。ディーナの腕を掴んで引き寄せ、もう一方の手で階下を示す仕草をする。
「確認しますが、彼女はここに卸すんですよね? 身請け金の額は、今回の件にかかった経費と同額ということで」
「ああ。身体は貧相だが、面はそう悪くねぇ。おまけに吸血鬼に抱かれてたんなら、多少は手荒に扱ったって、壊れりゃしねぇだろ。客が付くようなら、さっそく今夜から働かせてやれ」
その会話から、この部屋は娼館の一画にあり、自分は今から娼婦にされるのだと理解できたが、ディーナはそれをどこか他人ごとのように聞いていた。
もし現状に救いがあるとすれば、恐怖と絶望がじわじわと染み入るにつれて、また全ての感覚が麻痺し始めていることだろうか。
世界から色や音が抜け落ち、怒りも悲しみも麻痺していく。毒々しいまでに煌びやかな室内も、灰色に色あせて特に何も感じなくなる。
自分にどれだけの値段が課せられたのかさえも、もう尋ねる気もしなかった。
娼婦が自由になるのに、必ずしもどこかの客に丸ごと身請けされる必要は無いそうだ。日々の客を取って稼いだ分を、コツコツと積み重ねて返済しても良い。
けれど、それがなんだというのだ。
たとえ奇跡的に、ここで身請け金を自力で返済できたとしても、その後は……バロッコ夫人の縁者として、また金貸しに引き渡されるだけ。
虚ろな視線を床板に落とすと、腕を掴むグラートの手に、少しだけ力が増した。
「客はつきますよ。彼女を卸したら、そのまま俺が買いますから」
一瞬、部屋の空気が静かになった気がした。
彼の言葉は、ディーナよりも、むしろナザリオを驚かせたようだ。
「へぇ? お前がここで女を買うなんざ初めて見るな。どこかに気に入った女をこっそり囲ってるか、荒事と同じくあっちの方もからきし駄目か、どっちかだと思ってたが」
遠慮ない上司の暴言に、部下は控えめな笑い声をたてた。
「いえ。俺だって人並みに欲求はあります。選好みしてるだけですよ」
「なるほど。たしかに今までのところ、うちにはいなかった類だな」
下卑た笑いを口元に浮かべたナザリオが、ディーナの胸元を指差す。
気にしていた胸の小ささを揶揄されても、目の前で自分を買うと宣言されても、特になんとも思わなかった。
たいした感慨もなく、この人が最初にわたしを買うのかと、ぼんやりと考えた。
「そういうことです。彼女が交渉に使えなかったのは惜しいですが、すごく俺の好みなんで、この際そっちを楽しませてもらおうかと。……では、失礼します」
グラートはナザリオに一礼し、ディーナの肩を抱くように引きよせた。
その時。霞む意識の中でふと、錆びついた何かが擦れる音が聞こえたような気がした。
―― 旦那さまの傍に居られたら、もうそれだけで……。
「あ……」
心臓を錆びた鉄で擦られたように痛みが走り、麻痺していた意識が鮮明になる。自分に触れる手の感触に、激しい違和感を感じた。
他人事のように遠くにしか感じ取れなかったが、これから自分は、カミル以外の男に身体を開かされるのだ。
はっきりと理解した途端、凄まじい嫌悪が沸きあがった。
―― 嫌、嫌……っ!!
喉から出かかった叫びを寸前で呑み込み、腕を振り払って走り出したいのを必死で堪える。
どんなに嫌でもこれは、ディーナが自分の意思でバロッコ夫人を地獄に突き落とし、自らも飛び込んだ末路なのだ。
ここで往生際悪く抗い逃げようとしたところで、すぐに捕まるのが関の山。
そして、そんなに嫌ならばカミルに命乞いをしろと、また詰め寄られるだろう。
ディーナは息を詰め、必死で何も考えまいと努めながら、促されるまま従順に歩き始めた。
大丈夫。辛くても嫌でも、きっとすぐに慣れる。
昔のように、何も考えずに命令に従えばいい。