悪魔-4
「っ……」
ディーナはまたもや言い返せずに、唇を噛み締めた。
夫人の主張はあまりに一方的だが、どんなに悪意に満ちた理由であろうと、ディーナを自分の家へ置き続けたのは事実だ。粗悪な食事や衣服に、寝床は隙間風だらけの干草小屋であっても、ディーナがなんとかそれで命を繋げてきたことも。
夫人は焦りと苛立ちの混ざった表情のまま、口元を更に歪ませる。
「そうだよ、あたしはお前の命を救った恩人なんだ。その恩を仇で返すような真似をしたら、お前の大好きな両親は、墓の下でさぞ嘆くだろうね! 悪魔のような酷い娘だと!!」
「……!!」
身勝手な主張の最後につけられたとどめの言葉が、鋭い棘のようにディーナを突き刺した。
『――ディーナ。お父さんとお母さんはね、お前が優しい子に育ってくれるのが、何よりの望みだよ』
もう随分とかすれてしまった両親の声が、微かに聞こえたような気がして、呼吸が詰まりそうな苦しさの中でディーナは喘ぐ。
夫人が自分にした仕打ちは、とうてい許せるものではない。
もしも夫妻が、ディーナと同じくらい辛い目に会わされるのなら、躊躇い無く見捨てるだろう。
けれど……聞かされたバロッコの凄惨な最後は、ディーナの常識を遥かに超えていた。
ナザリオたちに脅された時、自分は絶望の淵にいると思っていたが、まだ考えが甘かったのだと思い知らされた。
人の命は、何よりも大切でかけがえのないものだと、亡き両親は言っていた。たとえ、自分にとって憎い相手でも、他の人にとっては大事な人かもしれないと。
これは子どもの頃、リアンにパンを半分しかあげなかった事とは、まるで次元が違う。一度失われた命は、後でどんなに嘆いても取り返しがつかない。
しかもこのままでは、ディーナだってそんな目に会わされるかもしれないのだ。
すごく残酷に、聞いただけで吐き気を催すようなやり方で、夫人ともどもに嬲り殺される……。
カミルが己の誇りを捨てるなんて有り得ないと思うが、藁にでもすがる思いで助けを請うべきなのか……。
ナザリオからも言われたように、なりふり構わず、死に物狂いでカミルに情けをすがる?
そうしたら、冷たく見えても優しい旦那さまは、少しくらいは迷ってくれるのだろうか……?
(お父さん……お母さん……私……)
俯いて顔を伏せたディーナへ、夫人が勝ち誇った声で叫んだ。
「解ったら、さっさとお前の吸血鬼に泣きつくんだよ! 武具なんぞ、どこで誰につくってもかまやしないだろう!」
―― 私……もう、決めたの。
ディーナは深く息を吸い、長椅子から立ちあがった。
「嫌です」
声は少し震えてしまったが、あんなに恐ろしかった夫人の顔を正面から睨み返し、きちんと自分の意思で答えを言えた。
「な……なんだって……? お前……っ!!」
顔を憤怒で赤紫色に染めた夫人から、視線を逸らすことなくディーナは続けた。
「私の答えは変わらない。旦那さまの武具は、私やあなたごときが穢して良いものじゃない」
「何を馬鹿な……頭がどうかしたのかね!? 殺されるのは、あたしだけじゃないんだよ! お前も同じ眼に会うと言っただろうが!!」
今度は顔を蒼白にして、夫人がヒクヒクと頬を引きつらせた。その様子は酷く貧相で弱弱しく見え、一体自分はどうしてまだこの女に脅えていたのかと、不思議になるほどだ。
「そ、それに、お前の両親だって……っ!!」
「今頃、天国でとても嘆き悲しんでいると思います。でも、私は……」
自分の亡き両親を、まだ盾にしようと足掻いてくる女に、もはや哀れみさえ覚え、ディーナは知らずに微笑んでいた。
夫人の言う通り、亡き両親はさぞ失望しているだろう。
カミルに泣きついて命乞いするという最後の希望を、試しもせずに投げ捨てるのは、誰に強要されたのでもない、ディーナ自身の意思だ。
カミルに自分のせいで、万が一にでも道を迷わせるような真似はしたくない。
そんなことをするくらいなら……。
「旦那さまの邪魔になるくらいなら、悪魔にでも死体にでもなったほうが、ずっとマシ」