濃い上司と薄い部下-1
「そろそろ起きろ」
誰かに肩を揺さぶられて、ディーナは重い瞼を無理やりに押し上げた。身体中が妙にだるくて、頭もズキズキと鈍く痛む。
はっきりと目が覚め切れぬまま、何度か瞬きをすると、自分がどこか見覚えのない部屋で、長椅子に寝かされていたのに気づいた。
高い天井には豪華なシャンデリアが輝き、置かれている調度品は豪華そうなものばかり。寝かされていた長椅子も、座面が厚く柔らかな極上品だ。
お城や貴族のお屋敷に入ったことは無いが、もしかしたらこういう場所なのかもしれない。あんまり日常とかけ離れている室内に、余計に現実か夢の続きか解らなくなる。
長椅子の傍らには、一人の男がディーナの顔を覗き込むように立っていた。どうやら、先ほど自分の肩を揺ったのはこの男のようだ。
黒髪を油で固めて高価そうな衣服を着込んだ男は、三十代の半ばという所だろうか。彫りが深い顔立ちで、いかにも押しの強そうな雰囲気が全身から漂っていた。
まだ夢と現実の狭間で男を見上げたディーナは、濃い顔の人だなぁ……などと、ぼんやり考える。
「おい、ちっと薬が効き過ぎたか? こっちは急いでるんだ、早い所しゃっきりしろ」
苛立たしげな口調と共に、男に頬をペシペシと軽くはたかれた。
「っ!!」
ようやく自分が異常事態にあることに気づき、冷水を浴びせられたように、一気に目が覚める。同時に、自身の身に起こったことを思い出した。
お祭りで初めて食べた綿飴は、とても美味しかったものの、ちょっと口をつけただけで溶けてしまうので、食べ終わった時にはディーナの手も顔もベタベタになっていた。
このまま人ごみの中を歩いたりしたら、きっとすれ違う人の晴れ着を汚してしまう。
上手に綿飴を食べていたサンドラは手も口元も無事だったし、ちょうど通りかかった知り合いと挨拶を交わしていたため、彼女に手を洗ってくると声をかけて、一人で水場に行ったのだ。
祭りの夜で、街はいつもとすっかり面代わりして見えるものの、本当に別の場所になったわけではない。
ここはまだ市場の端で、近くには公共の水場があるのも、ちゃんと知っていた。
水場には、主に幼い子連れの人々で行列ができており、飴やソースでベトベトになった子どもの手や顔を、両親や年上の姉兄などが、濡らした布で拭いている姿も見える。
自分も幼い頃に両親と一緒にお祭りへ来ていたら、こうだったのだろうかと、微笑ましくその風景を眺めながら、ようやく順番が来てディーナも手や顔を綺麗にした。
そして、サンドラの所に戻ろうとした時だった。
近くに歩いてきた若い女が、突然よろめいたかと思うと、ディーナの方へ倒れこんできたのだ。
『ご……ごめんなさい、急に気分が……』
細身の女性は、弱弱しく咳き込んでディーナの肩に掴まりながら、近くで家人との待ち合わせしているので、悪いが少しだけ手を貸して欲しいと頼んできた。
言われた場所は、サンドラの待つ屋台とは逆方向だったものの、さほど離れてもいない。そもそも、具合を悪くして困っている相手を見捨てられるわけもなく、快く引き受けた。
ところが、言われるまま市場の裏手の方へ一緒に歩いていくと、周囲に人気がなくなった途端、その女はディーナの首に腕を巻きつけてしめあげながら、鼻と口に湿った布を押し当ててきたのだ。
布からはムッとするような甘ったるい香りがして、息苦しさとともに強い眠気が急激に襲い掛かってきた。
意識が遠のきはじめる中、ディーナは女を突き飛ばそうともがいたが、敵を弾いてくれるはずの守り石は何も反応もしない。
手足からすっかり力が抜けて、硬い道端に倒れ伏したディーナは、強い眠気で歪む視界の中で、ニヤニヤとあざ笑う女が、皮紐の切り裂かれた守り石をぶら下げているのが見えた。具合の悪いふりをしてディーナにもたれながら、こっそり切り裂いたのだろう。
それから……ここまでの記憶が全くない。
慌てて胸元を探れば、やはり守り石も失ったままだ。
「っ……ここ、どこですかっ!?」
鈍痛を訴え続ける額を押さえつつ、必死に上体を起こして男から距離をとろうとした。
意識がはっきりした今、朦朧としている中で聞いた男の言葉を思い出せば、どう聞いてもこの男が、自分を無理やりにここへ連れてきた犯人らしい。
だが、男は口元をニンマリ歪ませてあっさりディーナから離れ、猫足の低いテーブルを挟んで向かいに置かれた安楽椅子に、どかりと腰をかける。そして親指で、天井の豪奢なシャンデリアを指した。
「ここか? 俺が預かっている事所だ。内装も俺好みにした。立派な部屋だろう?」
いきなり得意そうに言われて、ディーナは面食らった。
「え? はい……そうですね」
改めて見渡しても、確かに豪華な部屋だとは思う。あんまり派手で煌びやかすぎて、こういう雰囲気に慣れないディーナには、思わず居心地悪く感じてしまうほどだ。
しかし幸いに男は、ディーナの質問の意味も、きちんと察していたらしい。
「もっと解りやすく言えば、この街におけるアルジェントの拠点だ。そこを俺が預かっているって意味は、理解できるな? 俺の名前はナザリオだが、元締めと呼べ」
男が高価そうなスーツの襟を手でひっくり返すと、裏に銀色の丸い刺繍が見えた。よく見れば、有名なアルジェント貿易のマークだ。