2 鉱石ビーズ三百個-5
――しかし、目を覚ましたディーナは、自分が裸身のままシーツに包まり、寝台に横たわっているのに気付いた。
窓の鎧戸が閉まっているせいで、今が昼か夜なのかもわからない。
傍らのチェストの上に、小さな魔法鉱石入りのランタンが置かれ、それが室内をほのかに照らしていた。
ランタンの隣には、ディーナが夕べ着ていた服がきちんと畳まれている。
『うっ……痛……ぅ』
慌てて起き上がろうとしたが、クラリと眩暈がして敷布に突っ伏してしまう。
手足がガクガク震えて痺れるし、喉はヒリヒリして身体中がだるい。男を受け入れさせられた箇所も、今はあの凄まじい愉悦が嘘のように痛みを訴えている。
言う事をきかない身体に呻きながら、なんとか起き上がって服を着ようともがいていると、唐突に部屋の扉が開いた。
姿を見せたのは、やはりこの家の主たる吸血鬼だ。
ガラスの水差しを片手にした彼は、実に不機嫌そうな表情で、ディーナはシーツを巻き付けた身体をギクリとすくませる。
『身体が辛いならまだ寝ていろ。……久しぶりで、少し飲み過ぎた』
『え……』
無愛想な声でかけられた言葉に、呆気にとられた。同時に、ドクンと鼓動が跳ねる。
身体が辛いのはこの男のせいだとしても、彼にはそれをするだけの権利があったのだから、怒れない。
―― なにより、こんな風に労わられるのは、いつぶりだろう。
カミルは寝台に腰掛けると、水差しからコップに水を注いでディーナへ押し付ける。
『飲め。ただの水だ』
『……あ、りがとう……ございます』
ガラガラの声を絞り出し、受け取った水を貪るように飲んだ。ヒリついていた喉に水分が染み渡り、すぅっと心地良さが広がっていく。
カミルは黙ってディーナが水を飲むのを眺めていたが、水差しをチェストに置くと、黙って部屋を出て行こうとした。
『待っ……!』
とっさに呼び止めると、カミルが足を止めて振り向いた。険しくこちらを睨む赤い瞳は恐ろしかったが、勇気を振り絞って尋ねる。
『わたし……どうして、生きているんですか……?』
ディーナの問いに、カミルの表情が険しさを増した。
『俺に殺されないのが、そんなに不満か? 期待に添えなくて悪いが、俺はここが気に入っている。必要もないのに女を殺して揉め事になるなんて、真っ平御免だ』
腕組みをして扉に背を預けたカミルは、苛立たしげな溜め息をついた。
『言っておくが、昨夜のは、襲ったと言わせないぞ。売りにきたお前を、俺が買っただけだからな』
『……はい』
『解っているなら良い。動けるようになったら、黙ってさっさと出て行け』
『え? でも、旦那さまは、私を使用人として買って……』
目をしばたかせたディーナに、冷ややかな視線が投げかけられた。
『生き血用にお前を買ったのはほんの気紛れだし、高値を払ったのは、グダグダと交渉を長引かせないためだ。これでもうしばらく血は必要ない。お前は用済みだ』
『っ!?』
『安っぽい女が家をうろつくなんて、考えただけでも不愉快でな。お前を雇う気なんか、最初からなかった。どこに行くなり好きにしろ』
一瞬、目の前が真っ暗になった。
ディーナの手にある空のコップへと、パタパタと透明な雫が零れ落ちる。
『な……なら……私、好きにします……ここで、貴方にお仕えします!!』
自分でも驚くほどの激情に突き動かされ、ディーナは知らずに叫んでいた。
『あ?』
眉を潜めるカミルを、涙で顔をグチャグチャにしたまま睨んだ。
農場で辛い日々を過ごす中、いつしか泣く事も怒る事もなくなっていた。
そんな感情を見せても、誰も助けてなんかくれない。余計な体力を消耗するだけだから……。
それなのに、唇が戦慄いて、ガタガタと身震いが止まらない。
(……悔しい! 悔しい!!)
こんな風に、用が済んだ途端にあっさり捨てるなら……中途半端に優しくなんてするな!!
もう何も期待なんてしないと絶望していたのに、もう一度突き落とすなんて、あんまりじゃないか!!
『私は安くなんかない! 鉱石ビーズ三百個じゃ足りないくらいだったって……私を買って正解だったって、絶対に思わせてやります!!』
ハァハァと息を荒げて睨むディーナの前で、カミルはポカンと拍子抜けした顔だったが、ややあって呆れ果てたように肩をすくめた。
『……卑屈な女だと思ったら、いきなり図々しいことを言い出したな』
『う……』
冷静な声に、怒りで煮えたぎっていた頭が急速に冷える。ディーナは顔を真っ赤にしてうずくまった。
良質な鉱石ビーズ三百個なんて、売り方次第では金貨何百枚になることか。
自分がそれよりも高い価値の人間になるなど、大言壮語にも程がある。
『す、すみません……つい……』
忘れてください、と言いかけた寸前、唐突にカミルが笑いだした。
『見栄を張るにしても、そこまで言えばたいしたもんだ……いいさ。改めてお前を雇おう』
『ほ……本当、ですか?』
『ああ。それに昨日の代金は、お前に渡したわけじゃないから、給金も相場を調べてちゃんと払ってやる』
信じられない気分でディーナが見つめる先で、カミルがニヤリと口角を上げる。
『ただし、使えないと判断したら、その場で叩きだすからな。返事はどうした?』
額を指でピンと弾かれ、茫然としていたディーナは慌てて裸の胸にシーツを抱えたまま、背筋を正した。
『は、はい! 精一杯お仕えします、旦那さま!!』