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君に宛てて
【純文学 その他小説】

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1-1

 天蓋もなければ、調度品のような鏡もない、実用的なホテルのベッドで男は女を抱いて寝ていた。
 彼は女の腰に両手を回し、鼻をぴたっと女の背中につけていた。男も女も一切の衣服を剥いで、何もかも終わった後のように沈黙を落としていた。女はおもむろに身体を回転させ、彼の鼻が丁度、女の臍のあたりに浮いた。
 女は「結局、私じゃ駄目なんだね」と言った。
 男はその言葉に反応して、魅了的な眼を開き、ゆっくりと腰に当てた両手の指で彼女を下へと引き寄せた。女の茶色の髪が柔らかなベッドのシーツをこする音がした。それ以外の音はなかった。彼は彼と彼女の顔とが合わさるまで、女の体を抱き寄せた。女は、羞恥もなければ、喜びもなく、自身の悲しみではなく、この男への同情を表すような悲しい顔をして彼にキスした。それは対等の男女がするものではなく、まるで生まれたばかりの子に世界に誕生したことを祝賀し、或いは、同情する時にするキスのようだった。
 彼はその深きキスよりも不健全に思える行為を受けて、ベッドから抜け、床に捨て去られたような色落ちした黒いジーンズと少し皺になったホワイトシャツを丁寧に着て、部屋から出て行った。
 女はそこに残され、そして自分の寒い肌に、足蹴にしていた毛布を手繰り寄せて、被せた。

 男が外にでると、雨が降っていた。いつもならば雨宿りしてしまうほどの冷たい雨で、秋の頃に降るそれ特有の物悲しさを帯びて、アスファルトに消えていった。彼は男が独りホテルの前に立ち往生するなんて惨めだと思ったのか、雨の中を歩き始めた。ワイシャツに染みこむ雨が、彼の心にまで染み込んでいるように思えた。
 彼はホテルからそれほど遠くもない小さなカフェにたどり着いた。どうやら、そこは彼の行きつけらしく、看板には夜よりバーに変わるという旨のことが書いてある。

 彼は木目調の、暖かさを守っているような扉を開け、冷たい身体に少し温かい空気を感じる。カウンターには男がいて、女がウェイトレスをやっていた。どちらも彼と同い年らしく、大学の同級生といったところだろうか。
「おいおい、びしゃびしゃだな」とカウンターから男が言って、女にタオルをもたせた。彼は女からタオルを受け取り、シャツの内側に染み込んだ雨を確りと拭いていく。そして短く切られた髪を粗雑にタオルを被せて擦った。
「ナポリタンをくれ」と彼は言う。
 店内に聞こえない声などないのに、女は元気に男にメニューを言った。
「ナポリタン、入りましたー」
 外に降る陰気な雨が嘘のように活発な声が店内に響き、女は彼をカウンター席に案内した。彼はカウンター席に横向きに座り、九十度回転して、正面を向いた。片肘をテーブルに付き、手の甲を頬に寄せた。しばらくすると男がナポリタンを作り上げ、トマトソースが多量に載った麺の多い皿が彼の眼の前に運ばれる。彼はフォークを食器入れから取り、それに麺を絡め、掬って、口に入れる。口の中でいささか、ふやけて、芯のない、率直に言えば出来損ないの感触がした。なんだか彼は、皿に乗っている麺の実際の嵩よりも多く麺があるように錯覚した。
「どうだ?」とカウンターの中から男は聞く。
 彼は、少し言葉を選んで「もう少し硬いほうが俺は好きかな」と言った。彼なりの優しさに見えた。
 女はそれを聞いて、屈託ない笑いをした。そしていつもそうであるように言った。
「また、茹で過ぎ?下手なんだから、今度こそ私と変わる?」
 男は女とともに笑って、言う。
「お前だって、おにぎりくらいしかまともに作れないくせに」
 彼らの談笑に耳を向けながら、黙々と、無限に思えてくるふやけたトマト麺を食べていると、ジーンズのポケットに入れていた携帯のバイブ音を感じた。
 彼はメールだと気づき、ナポリタンを口に運びながら左手で携帯を取り出した。ディスプレイには女の名前が表示され、件名に『彼女から』とあった。おそらく彼と恋中の女性であるのだろう。
 本文には自分の居場所と、雨が降ってきて外に出られないという旨のことが書かれていたが、それは傲慢というより、愛と悲しみに満ち溢れたメールに思われた。まるで二度と会えない最愛の人に書かれた文のようであり、文中に短歌が入ってもおかしくなさそうな雰囲気さえあった。
「彼女から?」
 女は談笑を中断し、どこにでも売られていそうなビニール傘を持ってきた。彼は礼を言って、ナポリタンと男と女を残し、店を出た。

 雨は強さを増し、傘がなければ凍えてしまうのではないかと思われる程だった。彼女の現在地は駅前にあるコーヒー飲みを目的としたようなカフェで、彼が着く頃には、昼食時を過ぎても尚、人で埋まっていた。
 彼はマスプロダクト的なウェイトレスに、待ち合わせだと伝えると、窓際の、長い黒髪のきれいな女が座っている席に通された。
「待った?」
 彼は社交辞令じみた、ありきたり文言を口にして、女の向かいの席に着いた。
 女は少し微笑って、彼に言った。
「ありがとう、来てくれて」
 彼は少し閉口してしまった。そして、彼は居心地悪そうに自身の首根を掻いた。それは自分が誰かに意見を合わせて、それを自分の意志だと思われてしまった時の居心地の悪さに似ていた。彼は、緩やかに広がった綺麗な白いテーブルの一点を無意識に見つめていた。それを見て、女は言った。
「あなたが好きだけど、あなたの心のなかには違う人がいるんだね」
 彼は目線を上げて女の眼を見つめた。
「わかってる。付き合う前から、それでも私はあなたが好きだし、別れる気もないよ」
 彼はその言葉を聞いてひどく罪悪感を感じた。
「ごめん、こんな日は特に」と彼は言う。
 女は全て悟ったような、そんな眼をして言った。
「いいの、わかってるから」
 その響きは諦めのようなものだったし、決して明るいものではなかった。どちらかと言えば雨だったし、彼の心を暖めるものではなかった。
「ごめん、この傘は持って行って、俺はいいから」
 彼は傘を女に手渡すと、人の溢れるカフェの中を通って、雨の降る外に出た。女が独り残された。

 彼は街を歩いた、ただひたすらに、道か、人か、目に見えない何かを探すかのように歩いた。
 人混みの中を、閑静な住宅街を、地面へと等しく降る雨の中を彼は往った。
 そして彼は孤児の猫のようにすっかり濡れてしまった。雨なのか涙なのか歩く者には分からなかった。



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