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ちちろむし、恋の道行
【歴史物 官能小説】

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その1 ちちろのむしと出会ひけり-3

江戸では手習い師匠、上方では寺子屋といっているが、日本は当時から教育が盛んであり、たとえ大工の息子であろうとも、無筆であることが恥 とされ、手近な私塾へ通うよう尻を叩かれていた。もちろん志の高い子供もいて、男子は将来のお店(たな)への奉公、女子は女中奉公のため に、せっせと各地の師匠のもとへ通いつめていた。

瑚 琳坊の私塾は、大川橋にほど近い材木町の片隅の、長屋のはじっこの二間続きの部屋で、二十人も小さい尻が並ぶと、すし詰め状態となってし まう狭さだった。彼はたしかに坊主落ちだったが、達筆であり、書物も和書漢籍、大抵の物なら読むことが出来た。算盤は江戸に出てから見よ う見まねで覚えたが、子供らに教える程度ならそれで十分だった。坊主だった証を示すために毎日頭に剃刀を当てて威光を放ち、近隣の男の子 を相手に読み書き算盤を教えて、初めのうちは繁盛した。

が、 根がものぐさの瑚琳坊のこと、そのうち適当に教えるようになり評判が悪くなった。今では手習い子の数も半分の十人となり、彼等が瑚琳坊に とって貴重なおまんまのたねとなった。当然それだけでは食べていくことが出来ず、彼はあちこちの大名の下屋敷で夜ごと密かに開かれる博打 の場へと時々顔を出し、稼ぎを増やそうとしていた。勝つ時は大勝ちするが、負ける時は大損をこくというのが瑚琳坊の博打であった。

「あーあ、また負けちまった。最近立て続けに負けやがる。これじゃあ長屋の店賃をまた待ってもらわなきゃなら ねえ」瑚琳坊は草むらで立ち小便をしながら愚痴っていた。「夜っぴて賭け続けたが、今夜は最後までいい目が出なかった。もう、すっからか んだ。……こうなったら、お峰のやつに無心でもして、しばらく食いつなぐしかねえな」

日が昇り始めた草むらは夜露を含んで重たげだった。瑚琳坊は小便を切ると、二つ大きなくしゃみをした。

「おお、けっこう冷えるようになってきたなあ。もうすぐ長月か……」

瑚琳坊はふと、故郷上州の秋祭りの風景を心に思い描いた。

「ふっ……、柄にもねえ。さあ、帰ってひと寝でもするか」

光る頭をなで回し二三歩足を踏み出した。

「おや?」

ふと足もとを見ると、道のまん中に二匹の虫がいた。一匹は大きな鎌を身構えた蟷螂(カマキリ)で、もう一匹は 透き通るような白さのちちろむし(コオロギ)だった。蟷螂は獰猛さを内に秘め、身じろぎもせず獲物を仕留める機会を窺っていたが、白いち ちろむしは脱皮したてのためか動きがやけに鈍かった。瑚琳坊はじっと二匹を見つめていたが、ついに蟷螂が鎌を振るおうとしたその瞬間、草 履履きの足でそいつを踏みつけていた。急に仏心が沸き上がったのか。そうではなかった。蟷螂を見ているうちに強い者への、今宵博打で大勝 ちした男への怒りが湧き起こり、その八つ当たりが蟷螂に降りかかっただけのことであった。無残にひしゃげた蟷螂のそばで、ちちろむしはぎ こちなく這い回っていたが、いったん瑚琳坊に頭を向け、おじぎでもするかのように身をかがめると、高く跳んで彼の身体をかすめ、草むらの 中へと消えていった。

「せいぜい長生きするんだぜ……。面白くもねえ世の中だが、それでも生きてるうちにゃあ一つや二つ、いいこと があるだろうよ」

瑚琳坊は草むらに向けてつぶやいた。それは自分自身へのつぶやきでもあるようだった。




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