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まぼろしの海
【純文学 その他小説】

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まぼろしの海-1

潮騒。まだ聞こえている。海はもう、彼方へと遠ざかってしまったのに、波の音が、いつまでも耳のなかで揺れている。まぼろしの波の音。私の耳のなかには、まぼろしの海がある。たくさんの生命が、揺れている。私の耳のなかで、息をとめたマッコウクジラが、深く深く潜っていく。そのうしろ姿を消えゆくまでながめて、こんどは水面のほうを振り仰げば、夏の日差しが波と波のあいだを切り抜けて、リュウグウノツカイの、くねくねとのたくる体を、銀色に輝かせている。そうして昼が終わり、夜がやってくると、幾多の珊瑚が、私の耳のなかの、まぼろしの海を、彼らのたまごで覆いつくす。

それだけではない。ほんとうの海のなかでは、すでに死に絶えていった生き物たちの姿を見とめることだってある。ほら、いまちょうど、7000万年も前に、ほんとうの海のなかで暮らしていた、アーケロンという、とても大きなウミガメが、まるで空を飛ぶみたいに、鰭をはためかせて通りすぎてゆく。そして、向こうからやってくるのは、もっとむかし、5億年も前に、ほんとうの海のなかを我がもの顔で泳いでいた、アノマロカリスという動物だ。彼は「anomalo- (奇妙な) + caris (エビ)」と名づけられたが、じつはエビの仲間ではない。まぼろしの海のなかでは、アノマロカリスとエビの仲間が、ばったり出会うこともあるから、そのときによく観察してみればいい。お互いに、ずいぶんと異なった格好をしていることがわかるだろう。

鳴りやまない潮騒。生き物たちの律動。私の耳のなかに広がる、まぼろしの海のなかで、数え切れないほどの心臓たちが、血液を送り出すために、不断に震えている。そのうちのひとつに、とても懐かしい響きを感じる。私は私の耳のなかからあふれてくる、まぼろしの海へ、どっぷりと体をひたし、その懐かしい響きのするほうへと、泳ぎはじめる。
私はまぼろしの海を三日三晩泳ぎ続けて、その懐かしく響く心臓をもった生き物の、姿を目にする。
まだ、元気だったころの父の姿を目にする。
その皮膚に守られたからだの内側から、懐かしい心臓の音が、響いている。海が好きだった父の心臓の音。このまぼろしの海のなかでは、まだ快活に響いている。

幼いころの記憶が、波間にただよっている。
「五つ数えるから、そのあいだだけ息を止めているんだよ。そして、海のお友達にご挨拶するんだよ」と言って、父は、小さな私をその胸のうちに抱き、ゆっくりとふたりの体を海のなかに沈めていった。父にいざなわれて、私ははじめて海のなかへと潜り、それはとても短い時間だったけど、海の律動、海の生き物たちの心臓の音を聞いた。
そして、ほんとうの海のなかで、ずっと昔から放たれていた生き物たちの音のすべてが、いまは、私の耳のなかの、まぼろしの海で、響き合っている。
海が好きだった父もまた、いまは私の耳のなかの、まぼろしの海で、心臓を、ふるわせている。
いまもほんとうの海のなかで、心臓をふるわせている生き物たちと、いまは心臓をふるわせていない生き物たちと、私の父、そのすべての生き物の律動が、私の耳のなかで、潮騒となって鳴りつづけていた。
その音が、だんだんと小さくなっていく。

そして、私は唐突に目覚める。目じりが、かさかさする。眠っているあいだに、すこし泣いていたのかもしれない。私の耳のなかにひろがっていた、まぼろしの海の水が、目まで流れていって、そこからこぼれたのかもしれない。
潮騒はもう聞こえていない。
私はゆっくりと起き上がる。いまだ微睡みのなかにある、私の体に言い聞かせるように、つぶやく。
「今日は、ほんとうの海を見にいこう」


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