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白いキャンバス
【悲恋 恋愛小説】

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白いキャンバス-5

 圭子の息は、穏やかさを取り戻していた。
 「圭子さんは、どうして僕を誘ったりしたの?」
 「・・・・・。」
 「っていうか、どうして急に僕を思い出したりしたの?」
 「記憶・・・・・。」
 「記憶?」
 「私はずっと独身だった。でも、別に好きな人がいなかったわけじゃないし、つき合った人も何人かいた。」
 翔弥は圭子の目を見つめてうなずいた。
 「あのね、私、貴男に抱かれていながら、今さらこんなこと言うのも変なんだけど、」
 「うん。」
 「私、自分の人生の中で、特別貴男に対して熱烈な恋心を抱いていたわけじゃない。」
 「・・・・・。」
 「今も、昔も、貴男が一番好き、っていうわけじゃなかった。」
 「・・・答になってないよ。」
 「そうだね。でもね、私、ただ身体を満足させて欲しくて貴男を誘ったわけじゃないの。」
 「そう・・・なの。」
 「貴男はどう?私の身体で気持ち良くなるためだけに、ここに来たの?」
 「そ、そんなことはない!僕は貴女のことを、ずっと忘れてはいなかった。」翔弥は圭子を抱いた手をほどいて、彼女の頬を包んだ。「あの頃の貴女への想いは、ずっと心の奥に残ってた。」
 圭子は安心したようにため息をついた。「知ってる。」そして静かに目を閉じた。「貴男のその記憶が、私をここに連れてきた。」
 「記憶・・・・・。」
 「貴男の中にその記憶が残っていることが、私を苦しめてたんだ・・・・。」
 「え?苦しめてた?」
 「ごめんね、そんなこと言うと、貴男を追い詰めることになっちゃうね。そうじゃなくて、私、貴男のその記憶に抱かれたかった・・・・。」
 「記憶に・・・・抱かれる・・・。」翔弥は圭子の口にした言葉の意味が何となくわかるような気がした。たった今圭子を抱いたのは、おそらく、目の前の圭子に燃え上がったからではない。昔の彼女への自分の想いがそうさせたのだ。
 「三年も私を想い続けてくれた狩野くんを、好きになりたかった・・・・。」
 「僕は、今の貴女に何をしてあげられたんだろう・・・・。」
 「翔弥くん、貴男が今、そんなこと考える必要はないよ。私、もう、十分。すっかり透明になった。」
 「透明に・・・なった?」
 「白いキャンバスに描きたいことは、もう・・・・残ってない。ありがとう。狩野くん。」

 翔弥は再び圭子の身体を抱いた。空気のようにふわりと柔らかく、しかし雪のように冷たかった。

 「明日の朝、送っていくよ。家まで。」
 「大丈夫。一人で大丈夫。ちゃんと行けるから。」
 「君の家も知っておきたいし・・・。」
 「だめ。教えない。言ったでしょ?今夜だけだって。何度も言わせないの。」圭子は寂しそうに笑った。
 「・・・・そうだね。」
 翔弥の胸に頬を寄せ、圭子は上目遣いで小さく言った。「私、狩野くんに抱かれて眠りたい。いい?」
 「もちろんだよ。」
 圭子はすぐに寝息を立て始めた。やがて翔弥も深い眠りに落ちていった。

 不意に目を覚ました翔弥は、ホテルの大きなベッドに一人で横になっていた。
 「えっ?」
 翔弥は身体を起こした。枕元に封筒が置いてあった。表書きに『宿泊代』とあの年賀状の宛名と同じ字体で書かれていた。壁の時計を見た。針は七時半を指していた。
 「圭子さん?」翔弥は辺りを見回した。ベッドから降りて、バスルームを覗き、また言った。「圭子さん。」
 圭子はもうその部屋にはいなかった。翔弥の指先に、まだあの背中の冷たさが残っている気がした。
 「そうだ。」翔弥はケータイを取り出し、昨日の着信履歴の番号に電話をかけた。三回半ほどの呼び出しの後、通話が繋がった。
 『はい?』
 圭子の声ではなかった。
 「あ、あの、圭・・・安達さん・・ですか?」
 『安達?違います。たぶん、人違いです。』相手はいらいらしたように言って通話が一方的に切られた。
 「ど、どういうことだ?」
 翔弥は中学時代の友人に電話をかけてみた。その友人とは、ずっと会っていなかったが、年末に街角で久しぶりに会って、何とはなしに番号を登録していたのだった。
 「鈴木・・・だよな?」
 『ああ、狩野か。どうしたんだ?連絡早いな。マメなやつ。』
 「鈴木、訊きたいことがあって・・・。」
 『何だよ。』
 「安達圭子、って知ってるだろ?中学んときお前と同じクラスだった。」
 『安達?ああ。もちろん。』
 「彼女のケータイの番号、知ってたら教えてくれないかな。」
 『はあ?』鈴木は呆れたように大声を出した。『何言ってんの?お前。』
 「え?」
 『そうか、お前知らなかったのか・・・。』
 「何を?」
 『安達、去年の12月に亡くなったんだぜ。』
 「な、なんだって?!」
 『お前には連絡いかなかったんだな・・・。突然、くも膜下出血だったらしい。』
 「じょ、冗談やめろよ・・・・」翔弥は力なく言った。
 『こんなこと冗談で言えるか。そうそう、お前も絵の勉強してたからわかるだろうが、俺たち、初七日であいつの家、訪ねたら、でっかいフスマみたいなキャンバスが祭壇の横に置いてあってさ。』
 「キャ、キャンバス?」
 『あいつの兄ちゃん、言ってた。これに思い切り描くのが圭子の夢だったって。』
 「夢・・・だった・・・・。」
 『真っ白いままだった・・・・。あいつ、夢、果たせずに逝っちまったよ・・・・。』

 その後の鈴木との電話での会話は、翔弥には記憶がない。


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