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時は動き出した
【大人 恋愛小説】

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17-1

 すぐに昭二が飛び出てきて、「彼女が、挨拶に来てるんだ」
 挨拶? 私は親か? どのつら下げて挨拶だよ。軽蔑の感情しか沸いてこなかった。
 リビングに入るなり「この度は申し訳ありませんでした」と涙声で土下座をする黒髪の女性がいたので驚いて声を上げてしまった。
「あの、顔を上げてください。あの、ソファに座ってください」
 相手が妊娠している事を咄嗟に思い出したのだ。
「お茶、入れるからちょっと待っててください」
 そう言って私はスリッパを履き忘れていた事に気づき、玄関にとって返し、それからお茶を淹れた。何故私が狼狽えているんだろう。ここでの優位は私の筈なのに。

「どうぞ」
 コトッとガラステーブルにお茶を置いた。彼女は無言で頭を下げた。
「で、挨拶とは、何」
 昭二の方を向いて言った。彼女はずっと下を向いている。
「二人できちんと謝罪しようと思ってそれで......」
 昭二まで下を向いてしまった。私が二人を叱っているようではないか。まぁそれと殆ど同じ状況ではあるのだが。
「謝られても、どうにもならないから。もう部屋も決めて来たから近いうちここを出ていくから。慰謝料はきちんと払って。謝られても一銭にもならないからね」
 けち臭くて厳しいとは思ったが、きちんと言っておかなければならないと思った。私は彼女の方を見て続けざまに言った。
「お腹の赤ちゃんには何の罪もないから。大事に育ててあげてください。養育の為に必要な分のお金まで分捕るつもりはないから」
 彼女はしくしくと涙を流し始めた。泣きたいのはこっちの方だ。
「弁護士たてるならたてるし、そっちで決めて。離婚が成立するまで一ヶ月ぐらいはかかるだろうから、その辺どうするか早いうちに決めて」
 二人は無言で頷いた。
「あの、せっかくだから、お茶飲んでってくださいね。カフェインレスじゃなくて申し訳ないけど」
 彼女は顔を上げて涙を拭いた。鼻筋の通った美人だった。あの時はただただ不快なにおいでしかなかった香水も、彼女がつけていた事を思うと、そんなに不快に思わなかった。
 夫を取られた、そんなふうにも思わなかった。もう、愛なんてそこには存在していなかったからなんだろう。愛していない、ただの同居人。
 ただ、法律的にはセックスする事の許されない相手とセックスをした昭二はやはり悪い訳で。私はそこにしか拘っていなかった。

 お茶を飲んで、彼女は再度「本当に申し訳ありませんでした」と深々と謝罪をした。
「あの、いいです、後は昭二とケリつけますので、お身体大事になさってください」
 下まで送って行けば、と昭二の背中を押して、彼女と昭二は部屋を出て行った。

 私は寝室へ入り、部屋の鍵を閉めた。電話の子機を手にし、登録してある実家に電話を掛けた。
「あ、お母さん?」
『めずらしいねぇ。どうしたの?』
「お父さん、今日仕事?」
『いるけど、お父さんじゃなきゃだめ?』
「たまにはお父さんでお願いします」
 ふふっと笑って母は父に電話を代わった。
『もしもし、たまにしか出ないお父さんだけど?』
 ぷっと吹き出し、私はベッドにゴロンと寝転んだ。
「あのさ、私離婚するから」
『え、なに? 何それ?』
「そうやってお母さんもショック受けるかも知れないと思って、お父さんに代わって貰ったの」
『はぁ、でも何で?』
 理由まで言うか迷った。今度実家に帰った時でもいいかとも思ったが、いつ言っても同じだ。
「昭二が女を妊娠させた」
『何だよそれは』
「まぁこっちは慰謝料貰ったりして何とかやっていくから。落ち着いたらそっち行くし。お母さんには、これからショッキングな話をしますので落ち着いて聞いてください、って言ってから話すんだよ」
『分かった分かった。んじゃな、身体に気ぃつけて』
「じゃぁね」


 夜、真吾から『詳しい話を聞かせてよ』とメールが着たが、返信はしなかった。


 翌日の昼休み、私は戸籍を取り扱う窓口へ行き、離婚届を受け取った。顔見知りの人間が窓口にいたので少し怯んだが、関係ない。私は前に進むしかないのだから。
 席に戻ると、丁度相沢さんが昼食から戻ってきた。
「相沢さん、私、これを書く事になりました」
 手に持っていた薄っぺらくてつるつるの紙を見せた。
「え、じゃぁ不妊治療の事で仲違い?」
「いや、それもありますけど、旦那が同僚を孕ませちゃって」
 苦笑しながら言う私の顔を、相沢さんは口をぽかんと開いたまま見つめていた。穴が開くかと思った。
「牧田さん、大丈夫なの? 辛かったら休んでもいいんだからね」
 相沢さんらしい、優しい気遣いだった。
「大丈夫です。手続きするにも庁舎にいた方が何かと便利ですし」
 本当に大丈夫だった。離婚を切り出されて、ショックを受けなかったというと嘘になるが、立ち直れない程ではない。現に、もう部屋まで決めてきた。
 それより心配な事は、夫との縁が切れた時。夫という足枷が外された時。私の心は真吾へ向かって行ってしまうのではないかという事だった。真吾は同僚の女の子に告白されたと言っていた。彼が離れていく事が、怖かった。
 不貞行為がなかっただけで、私は「浮気」をしていたんだ。真吾に浮ついた気持ちで接していたんだ。彼に甘えていたんだ。
 そう考えると、昭二に厳しくし過ぎるのは何かおかしいような気もしてきた。




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