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時は動き出した
【大人 恋愛小説】

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-1

「もう、寝てるか?」
 その声に私は眠りの底から這い出た。帰宅した昭二の声だった。
「婦人科は?行ってきた?」
 毎日深夜に帰ってくる昭二は、私が寝ていようと何だろうと関係無く、用事があれば言うなれば「叩き起こす」のだった。そうでもしなければ、私は起きない。
 暗い部屋の中で、廊下の明かりを背にした昭二の顔はよく見えなかった。私は何度か瞬きをし、昭二にピントを合わせる。
「行ってきたけど。話、明日じゃダメ?」
私は朦朧とする頭の中で、一生懸命に言葉を紡いだ。すぐにでも眠りに誘う無の世界が頭を支配しようとする。ここで戦っている懸命さに彼は、気付こうとはしない。
「はぁ?お前がそんなスタンスだから、いつまでたってもできないんだろうが」
 目の辺りを押さえる様にして昭二は俯き、そのまま部屋を出ていく。ドアが閉められると照明が遮られ、漆黒の闇が訪れる。
 睡眠薬を服用していると、一度落ちた闇から這い出る事がなかなか難しいという事を、昭二には全く理解してもらえない。

 翌朝、新聞を掴んで無言で起きて来た昭二に「おはよう」と声を掛けると、酷く不機嫌な声色で「婦人科の話は?」と言われ、唖然とした。朝から調子が狂う。
「タイミング法ってのを試してみて、ダメならまた考えましょうって。一年妊娠できないぐらいじゃ、まだまだ望みはあるって先生が」
 新聞に目を落としながらマグカップに入ったホットミルクをスズっと啜り「ふーん」とまるで他人事のように昭二は返事をした。聞いているんだかいないんだか。
 母子家庭で育った昭二は一人っ子で、その母をも大学時代に亡くし、結婚した今は私の実家、下田家との縁しか無いという。親戚との関係も薄いらしい。
 だからこそ、自分の血が流れる子供を、一日も早くこの腕に抱きたいんだ、そう昭二は熱く語っていた。
 だが、彼の焦りを知った私は更に焦り、性交渉をしてもしても毎月決まって生理が訪れる現実に頭を悩ませ、不眠症を患ってしまった。
 そのため、更に性交渉の回数は減り、妊娠から遠のいてしまっている。
「婦人科に相談してみたら?」
 そう言い出したのは昭二だった。彼なりの愛情なのだと感じ、その時は浮きだつ気分だった事を覚えている。
 私は仕事を定時であがり、最寄りの婦人科へ足を運んだ。
 一通り内診や簡単な検査を受けた後、医師はカルテと検査結果の紙を見比べながら、少しメガネの位置をずらして言った。
「簡単に見させてもらったけれど、あなた自身には妊娠する力があるみたいだね。安心してね。排卵日を狙って性交をする、タイミング法ってのがあるからね。先ずはそれをやってみましょうか」
 白衣を着た男性医師の前向きな言葉と、目尻を下げて笑う慈悲深いその顔に幾分救われた。
 次回の来院日を決め、帰宅したのが昨晩だったのだ。

「だからその日は、早めに帰って来て欲しいの」
 私の依頼に昭二は苦々しい顔をして「公務員じゃないんだよ、俺は」吐き捨てるように言うと、新聞で顔を隠した。
「お前が睡眠薬飲まないで起きてろよ。それで済む話だろうが」
 薬を飲まないと眠れない。だが夜遅くなってから規定量の薬を飲むと翌朝に響く。その調節が難しい。それも昭二は理解してくれない。進んで理解しようとはしない。
 タイミング法では、性交渉に適した時間まで指定されるらしいのだ。もっとも、そこまで説明したところで、昭二が自分の仕事を優先させるであろう事は想像に易い。
「分かった」
 理解を強いられるのはいつも私だ。結婚する前は、気が済むまで話し合える関係だったはずなのに。どこで狂ったのだろう。
 私は自分の食器を食洗機にセットし、水色の洗剤を垂らした。
「後はよろしく」
 そう言って昭二よりも一足早く、出勤した。


 最寄駅のホームには、タオルで額を拭うサラリーマンや、扇子で扇ぐ中年女性、周りの目も気にせず日傘をさす若い女性などで溢れていた。
 八月の暑さと混雑に、電車の遅延が重なり、皆がイライラしているように見えた。
 私は今朝の件があり、イライラを通り越して深い谷底をさまよっているような気分だった。
 列車が到着する軽快な予告音が鳴り、風を連れて列車がホームに滑り込んでくる。
 我先にと、小さな乗降口に人が殺到する。何をそんなに急いでいるのかと冷たい笑みが口端に浮かぶ。
 私は列の最後尾から列車に乗り込み、ドア付近に立つと、閉じたドアのガラスに身体を預けた。
 急に列車が動き出したので、一瞬「うわっ」と声があがり、よろける人が続出した。
 ふと、半年前の列車事故の事を思い出す。




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