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掴み取れない泡沫
【大人 恋愛小説】

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26.矢部君枝-1

 いつもより少し早く帰ってきた智樹と一緒に、野球中継の延長戦を観ながらご飯を食べる。
「どっちが勝ってもおかしくないなぁ」
 ご飯をもぐもぐしながら話すのは何となくおっさんぽくて、智樹じゃないみたいに感じる。ずっと一緒にいたら、智樹だって少しずつおっさんぽくなってきて、ちょっと加齢臭がしてきたりして、何か全体的にべとっとしてきたりして、そのうち全体的にがさがさしてきて、盆栽とか育てたりして、何かそんな風になってくるのかなぁと、随分飛躍したところまで思考が及んでしまった。

「なぁ、君枝さぁ」
 智樹が入れた緑茶を飲みながら、対面に座る智樹が話しかける。
「子供、好きか?」
 私はお揃いで買った湯呑みを持ったまま口に運べず、「好き、だけど、なにが」としどろもどろになる。
「もし、子供が出来たら、困る? 今大事な仕事があるから、とか、子供はもっと後になってからがいいとか、そういうの、考えてる?」
 この人も随分と思考がぶっ飛んでるなぁと思いながら「別にないけど」と答える。
 そうか、と口元に笑みを浮かべながらずずずと緑茶をすする姿は年寄りみたいだ。
「もうすぐ誕生日だな」
 私はカレンダーに目をやり「そうだね」と応える。三年前の二十歳の誕生日。今、耳につけている空色のピアスをくれた事を昨日のように思い出せる。この三年間、他のピアスを殆どつけていないぐらい、気に入っている。
「今年は智樹の誕生日が土曜日だから、智樹の誕生日に合わせてパーティだね」
 そう言うと、智樹は立ち上がってカレンダーに乱雑な文字で「たんじょうかい」と平仮名で書く。
「こうやって、カレンダーに書く事が沢山になってくると、嬉しいよな」
 ほくほくの笑顔で緑茶をすする智樹がとても愛おしくて、「そうだね」と笑い返す。
「今回もプレゼントなしだからね、これからずっとプレゼントしあってたら、家の中プレゼントばっかりになっちゃうからね」
 三年前の不意打ちは嬉しかったけれど、私は結局「大人のキス」をプレゼントしたぐらいで他に何もできなかったのだ。


 智樹の誕生日当日、二人でケーキ屋さんに出向いた。どうせなら好きなケーキを買おうと言って、カットしたケーキを二切れ、買った。智樹は抹茶のケーキ、私はチョコケーキ。ろうそくは二本貰って、一本ずつ消す事にした。
「なぁ、何で去年は一緒に誕生日過ごさなかったんだ」
 言われても困ってしまうような質問をするので、何も言えずにいると「嘘だよ、これからずっと一緒ならそれで十分です」と智樹は笑った。
 帰りにスーパーに寄り、ちょっとしたお惣菜とお酒を買って家に帰る。そこは智樹の家ではなく、「自宅」なのだと思うと何だかとても嬉しくて、ほくそ笑む。
 お惣菜をつまみながらお酒を開け、乾杯をする。二人で過ごす誕生日に、特にこれといって特別な事はなく、いつもよりお酒の量が多くなるとか、テレビを観ながら食事をしないとか、食後にケーキがあるとか、そんなぐらいじゃないかな、違いなんて。
 ケーキに立てた一本ずつのろうそくに火を灯し、手をつないで吹き消した。智樹も私も23歳になった。繋いだ手に意味はない。何となく、その腕にはめられた革のブレスレットがふれあう感覚が嬉しいから、だ。
 智樹はさっさとケーキを食べ終わると、やにわに立ち上がり、棚に置いてあった紙袋を持って来た。設楽とかいう女性が来た日に智樹が買い物してきた袋だったけれど、何が入っているのかなんて見ていなくて、そのまま置いてあったものだ。
 無言で袋の中に手をつっこみ、中から四角い箱を取り出すと、私の隣に座った。ずいと伸ばした手の先に、ベロア調の箱が乗っていた。
「開けてみて」
 中身は予想できた。それはアクセサリーが入っている事が容易に想像できる箱だった。ベタだ。今度はどんなネックレスだろう。そんな風に思いながらパカッと箱を開いた。
 そこに入っていたのは、仲良く並んだペアリングだった。シンプルで、小さいリングには小さな石が埋め込まれている。私がそれを見た事を確認すると、智樹は手を引っ込め、箱をテーブルに置く。小さい方のリングを手に持って、私の左手を引き寄せた。
 薬指に吸い込まれるようにそのリングが入って行き、一番奥まで辿り着いた時、智樹は顔を上げて、私をじっと見つめた。
「俺と、結婚してください」
 一字一句聞き逃さなかった。私は智樹の顔を見つめたまま、唇がひくひくと痙攣した。涙は下まつげのすぐ手前まで溢れていて、それでも私は泣くわけにはいかなかった。まだだ。
 箱に入ったもう一つのリングを手に持ち、彼の左手をとると、彼は少し驚いたような顔をして、でも笑って私の手元を見つめている。同じようにして左手の薬指に指輪をはめて、私は口を開いた。
「私で良かったら、貰ってください」
 最後は涙が溢れてしまって言葉にならなかった。涙でぐしゃぐしゃになりながら智樹の胸に飛び込んだ。智樹は私の背中に手を回し、背骨の本数でも数えるかのようにゆっくり、ゆっくりと背中を擦る。うれし涙ってこんなに沢山でるんだと驚くぐらい、止めどなく涙が溢れた。


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