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掴み取れない泡沫
【大人 恋愛小説】

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12.太田塁-1

 矢部君が俺の部屋に来た時、ちょうど、どでかい雷が何度も鳴っていて、バケツをひっくり返したみたいな雨がうるさく窓ガラスを叩いていた。
「うわ、ちょい待ち、タオル持ってくるから」
 シャツの肩口がびっしょりになっているし、髪の先は濡れてるし、カバンはびしょ濡れだしで、そのまま家にあがってもらう訳にはいかなかった。洗い立ての水色のタオルを渡すと、濡れた部分を押さえて水気を吸い出している。
「凄いよ、雨」
「家にいても分かるよ。俺が車持ってりゃ迎えに行くのにな」
 矢部君が鼻で笑ったような気がしたから俺は「いつか買うもんねー」と宣言してやった。そもそも免許なんて持っていないんだが。

「あぁ、やっぱり」
 濡れそぼったカバンを開けると落胆の声が聞こえた。「何か大事なもん?」
「んー、濡らしたくなかったもの」
 それを手の中に握って俺に見られないようにタオルにはさみ、水分を吸い取っている。そしてまたカバンに戻そうとした時に、握った指の隙間から、赤茶色の革ひもが飛び出していた。
 大事に持ち歩いているのか、そう思うと胸の奥の方がヒリヒリと痛んだ。同じ物を、智樹の家でも見かけた。あいつは携帯につけていた。あいつが矢部君を引きずっているのはよく分かってるから何とも思わないのに、今、目にした光景は俺を打ちのめすにはなかなかの効果を発揮している。
「至に会ったよ」
 俺はパソコンの前に座り、椅子を左右に振りながら口を開いた。矢部君はふわっと笑みを浮かべて「懐かしい、元気だった?」と言う。あいつが元気じゃない筈がない。
「当たり前だ。元気だし、拓美ちゃんとも仲良くやってるそうだ」
 自分の事みたいにニヤニヤしながらカバンの中身をタオルで拭っている。「へぇ、そのうち結婚報告かも知れないね」
 そだねー、俺は気のない返事をしながら、パソコンデスクに脚を乗せた。
 結婚したい、子供が欲しい。矢部君の言葉が頭に浮かぶ。俺は彼女をそこまで運んで行けるんだろうか。矢部君を嫁さんに? 矢部君と子供を?
 どう考えたって、相手は俺じゃないだろう。脳裏をちらつくあの赤茶色が鬱陶しいし、連絡を寄越そうとしない智樹は腹立たしいし、結局俺は今、矢部君を部屋に連れ込んで、最終的にどうなりたいのか、自分が巨大迷路のど真ん中に立たされている気分だ。
「なぁ、俺は矢部君にとって、何なんだ」
 口をついて出てしまった言葉がこれか、と自分に酷く落胆する。矢部君は手を止め、キョトンとしてこちらを見ている。「何って?」しばし考えている。
「好きな人......かな」
 俯いて顔を赤くして強烈な言葉を吐いた。逆に何だか安心してしまって、「彼氏」って言われた場合の俺の戸惑いと狼狽をない交ぜにしたような顔を見られなくて良かったと思い、「それでよい」と言ってしまった。
「じゃぁ訊くけど、私は塁の何なの?」
「言ってやらねえ」
 ずるい! と糾弾されたが、俺は言ってやるつもりはない。「本当は彼女になって欲しい」なんて、俺には言えない。あの革ひもを、ピアスを、矢部君がつけ続ける限り、俺は言えない。智樹は何で何も言って来ないんだ。あいつはこのまま、矢部君を放っておくつもりなんだろうか。
「矢部君って、男友達とか、いるの?」
「加藤君っていう、学科の群で一緒だった子なら、メールのやりとりしてるけど。今度ご飯食べに行く事になったんだ。塁も一緒に来る?」
 何で矢部君が智樹でも至でもない他の男と飯を食っている場に、俺を誘うんだこのバカチンが。
「いきましぇん」
 いっその事そいつと恋仲になって、俺が手出しできないような状況に陥ってくれたら、俺は精神的に楽になるのに。いや、なるか? ならないな。やっぱり矢部君の隣には、智樹がいて欲しい。俺はそれをニヤニヤしながら見ていたいんだ。
「で、それはいつどこで執り行われるんだ?」
 俺を訝しげな顔で見ながら「何それ、葬式じゃないんだから」という矢部君を「言え」と急かす。
「金曜日、仕事終わってから駅前のファミレスで、だよ」
「駅ってどこの」
「長居」
 そこまで聞くと、俺は一人でうんうんと頷いて、携帯のメール画面を開いた。


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