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掴み取れない泡沫
【大人 恋愛小説】

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10.矢部君枝-1

「えぇ、助成金のご相談でしたら三階の、三番の窓口にお願いします」
 これで最後かな、私は窓口の椅子から立ち上がり、自席に向かった。閉庁を知らせる音楽が館内に鳴り響く。三階の三番窓口さんは、これからあのしつこそうなおじさんと、延長戦かと思うと、同情してしまう。
 カバンの中に、飲みかけのペットボトルをしまう。ふと目がいったそこに、あった筈の物がなくなっている事に気づいた。カバンの内ポケットのファスナーにつけた、革のブレスレットがない。輪になっている革ひもの一つを何とか引き抜いて、ファスナーに結びつけたのだった。
 カバンの中身を全て机に広げ、カバンの底を見ると、輪になったブレスレットと、そこからちぎれた革ひもがぴょこんと出ていた。安堵の笑みが出る。なくさないように、内ポケットに入れると、帰り支度をして庁舎を出た。
 庁舎から駅までの道のりには既に半袖を着ている人をみかけるようになった。もうすぐ梅雨になる。雨で中止になった、サークルのバーベキューをぼんやりと思い出したが、ぼんやりのまま、頭から振り払った。

「いらっしゃい」
 暖かい笑顔は変わらずそこにあった。革製品店の店員さんは、まだ変わっていなかった。
「確か、ブレスレットを買って行かれた方」
 虚をつかれたように目をまん丸にして「は、はい」と答える。
「あの、ブレスレットが千切れてしまって、どうにか修理できないかなって思って来てみたんです」
 見せてくださいといわれ、カバンの内ポケットからブレスレットを取り出す。
「あぁ、これだったら千切れてしまった革ひもを新しい物に取り替えましょう。これね、私がここで作ってるブレスレットなんですよ」
 購入する時には聞かなかった話に耳を傾ける。
「こうして壊れてしまった、なんて言って修理までするのは、初めてだな。だいたい、薄汚れてくるとみんな、捨ててしまうんだと思うんですよね」
 私は相づちを打ちながら彼の手元をじっと見つめていた。何色も並んだ革ひもから一色を選び、器用に他の革ひものループに通して行く。
「そういえば」思い出したように、私の顔を見て言う。
「あなたが買って行ったブレスレットのもう片方をお持ちの方が、先日お店にいらっしゃいましたよ」
「え?!」素っ頓狂な声を上げてしまってあわてて口元を押さえる。
「修理、ですか?」
「いや、彼はこれをストラップに改造していてね、多分包装に使った革ひもで結びつけてるんだろうな。売り物のブレスレットと自分のブレスレットを見比べてましたよ」
 そうですか、と尻窄みになりながら息を吐く。智樹がここに......。
「な、なんで私が買って行ったって分かったんですか?」
「革製品は触ればだいたい何年ぐらい使ってるかとか、分かるんですよ。特に、自分で作った物はね。背の高い、イケメンの彼、でしょ」
 無言で頭を縦に振ると、店員さんはもとの形に戻ったブレスレットを私の手の平に載せる。それを腕に通してみると、一本だけ、買ったときのように私の腕にはなじまない、まん丸の革ひもが隊列を崩していた。
「大事にしてくれてるのが分かって嬉しいですよ。修理代はサービスします」
「でも」
「いいんです。その代わり、また壊れたら来てください。次は、新しいのをお作りして、売りつけますからね」
 カラッと笑って白い歯を見せた。私は何だか照れくさくて、こめかみの辺りをぽりぽりかきながらお礼を言って、店を出た。
 智樹と別れてから、大学の構内で会う事は殆どなかった。卒業式で見かけたのが最後だ。それがここにきて急に、彼の陰がちらつくようになった。塁が帰国してからだ。運命のいたずらか。何なのだ。
 何年ぶりか、そのブレスレットを腕に通して、帰宅した。これからこのブレスレットをどこにつけるか、暫く考えていた。


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