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掴み取れない泡沫
【大人 恋愛小説】

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3.太田塁-1

 駅の階段から智樹が降りて来たから俺は右手をひらりと上げた。その手を上げたまま保ち、智樹が目の前に来ると同時にこいつの腹に一発拳を入れてやった。似合いすぎているスーツの一部にシワが寄る。
「出し抜けに何だお前は」
 顔をしかめる智樹に、俺はあいつの名前を出すと、智樹はばつが悪そうな顔をする。
「会ったのか」
「さっき一緒に飯食ったからね」
 二つあったカバンの一つを智樹が持ってくれたので、俺は重たい方の一つをよっこらしょと背負って歩き始めた。

「明日不動産屋に行くから。長居にマンション借りたんだ」
 当然の如く智樹はその駅名に反応する。「長居?」
「そんなに気になるなら別れなきゃ良かったのに。バカチン二人はこれだから」
 矢部君と智樹の間に「別れる」などという言葉は存在しないものだと思って疑わなかった。自分でも可笑しいと思うが、妙な自信があった。俺が帰国しても絶対に、何だかんだでうまくやっているのだろうと、確信していたのだ。矢部君の前では表情に出してやらなかったが、俺はもの凄く驚いたのだ。別れた事も。別れた理由も。あり得ない。セックスできないから別れるなんて、あり得ない。
「別に俺が別れたいって言ったわけじゃねーし。俺にしてはみっともなく縋ったよ、かなりね」
 智樹は駄々をこねる子供みたいに口を尖らせて言うが、俺はふーん、と声に出してあしらう。縋ったって何だって、手放したら意味がない。ずっと縋ってりゃ良かったのに、何で諦めたんだこいつは。
「で、今はどうせ、彼女がいるんだろ、色男さんは」
 ばつが悪そうな顔で首元を掻いて「まぁ」なんて言うからもう一発、脇腹にパンチ。

「至と拓美ちゃんは、東京に移って、至は商社の営業、拓美ちゃんは警備会社の事務っつってたかな。あいつらはまだ何だかんだで付き合ってるみたいだけど」
「で、矢部君はお役所勤めで、智樹は会社員?」
 スーツのネクタイを片手でググっと緩める姿を見ながら言うと、低い声で「そう」と答える。その姿がちょっとかっこいいなと思ってしまった俺が、俺らしくて嫌になる。
「医薬品の会社で営業やってんだ」
 俺はしばし考え込んだ。「てー事は」何なんだこいつら全員。
「一人も希望の職に就いてないって事か。何だよ」
 俺は二年前、山梨のログハウスで将来について語ったあの時間をふと思い起こしていた。至は特に何も言っていなかったが、拓美ちゃんは公務員、矢部君はカウンセラー、智樹は大学院に進学したいと言っていた。その頃は遠くない夢なのだと思っていたのに、誰一人として夢を叶えていなかった。現実は厳しい、そう言う事なのか。夢を叶えたのは俺だけか。
「塁は何やるんだ、仕事」
 俺は空港においてあった携帯電話のカタログを見ながら「絵のお仕事です」と端的に答え、どうだと言わんばかりに着替え途中の智樹を見上げた。奴は口をポカーンと開けてアホヅラをこいている。
「お前、やっぱ凄いわ。夢、叶えちゃうんだもんな」
 その声は本当に心から俺の事を称賛してくれているようで、嬉しくて涙が浮かぶ。まあ、泣かないけど。


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