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monster
【サイコ その他小説】

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monster-1

「……此れから俺たちどうするんだよ,」
 俺は前を歩く姉の背にそう問いかけた。三月下旬の川沿いを行く。微かに桜の香りが混じっているように思う。しかしながら俺は,桜の香りなど知らない。
「分からない,私に聞かないでよ。」
 憔悴しきった声。堰を切ったように,姉の肩が震えた。泣いているのだろう。俺だって泣きたい。しかし,いくら俺だって喧嘩した儘死別した姉の方が辛いということくらい判っている。判っているから,俺は彼女の前で嗚咽を漏らす訳にはいかなかった。捜索願いを出して四日目の昨夜遅く,俺は受話器を引っこ抜く。警察からのものだった。漸く,母が見つかったという。頭だけだけれど。
 春の日差しは程良くて,此の,淡い空の底に沈む俺達を事有れかしといった具合に狂わす。きっと父もそんな空気に飲まれたのだ。誰もが誉めそやす,優しくて頭脳明晰な父。そんな父が,母を殺したという。動機は不鮮明。きっと過失なんだ。そうであって欲しい。否,絶対に過失以外有り得ない。
「此処で……お母さんの頭が見つかったのね,」
 姉は俺に背を向けた儘,立ち止まる。姉の言うように,母は此の場所で見つかった。目の前に日頃勝ち気の姉の嗚咽は,かなり痛々しい。一晩中事情聴取を受けていたのに,欠伸も出ない。対して涙の方は,姉の背中を見ていると容易に溢れ出そうになる。俺は目のやり場に困憊して俯いた。パーカーの胸元に,昨日食べたビーフシチューの染みを見つけた。少し情けない。そういえば昨晩,父は食欲がないと言って,姉の拵えたシチューを残していた。きっと食べる気が起きなかったんだ。自分で自分を責め立てて。
「……此れから,世間やマスコミの謗嘲を食らうことになるでしょうけれど……,お父さんもお母さんもあなたを愛しているのよ。勿論,私も。それだけは忘れないで頂戴ね。」
「……うん,」
 此の人はやっぱり姉だ,と俺は思った。こんな時くらい,泣き叫べばいいのに。弟を此処まで気に掛けてくれる。苟も俺は救う側にはなれず,救われる側に自然と立たされてしまう。いつもこうだ。もっとちゃんとしなくてはならない。特にこれからは。
「お母さん,最後に私たちがプレゼントした真珠のネックレスをしていたそうよ。……お母さんの誕生日に買ってあげたやつ。覚えてる,喧嘩したわよね。あなたはイヤリング,私はネックレスがいいってとうとう言い合い。結局私が我を通しちゃったけれど。」
 そんな事もあった。姉の選んだネックレスがあまりにも上等の値段で,賛成するわけにはいかなかったのだ。幼かった俺には,夏目漱石すら紙ではなく神の領域だったのに。姉はどうしてもネックレスにしようと言った。絢爛たる真珠のリンケージが,女にはどれ程美しく見えるのか,男の俺にはよく判らない。其れは判らないのだけれど……俺は耳元で川の流れに似た音を聞いた。否,確かに此処は川沿いの道であるのだが,其の音との距離はもっと近い。つまりは俺の頭の中で鳴ったものだ。
「……お母さん,似合っていたよね。やっぱりネックレスにして正解だったわ,」
「姉さん,」
 俺は意を決して言う。姉は振り返らない。
「ネックレスなんて,誰から聞いたの。」
 姉は答えない。糸の切れた傀儡のように,動かない。春と言う名の,複雑に絡み合う粒子の糸。
「……頭だけ見つかったんだよね。だったらネックレスなんて見つかる筈は……,」
「何を言っているの,」
 姉の強い口調。俺は其の真っ直ぐな声を聞いて逆に確信してしまった。先刻までの嗚咽は何処。偽りか。
「もしかして,姉さんが殺したとかじゃない,よね,」
 父は優しい人だった。そう,父は優しい人だった。繰り返す,父は優しい人だった。父は――
「……姉さん,答えろ!母さんを消したのは姉さんだろう!」
 信じたくはなかった。しかし,突きつけられたモノの実態を,どうして籠絡でないと言い切れる。どうして夢想だと言い切れる。
「……何言ってるのよ,」
 姉はゆっくり振り返る。俺は姉の乾いた頬を見た。涙なんか流していなかった。先刻見た肩の震え……それは,笑いだった。
「お母さんなら,私達の中に居るじゃない,」
 意味不明だ。訝しげな表情をする俺を見据える姉は,間もなく不気味に笑って自分の腹を指さした。凪いだ風に,気味の悪い姉の声が絡まる。そして……静かにこう言った。
「……昨日のビーフシチュー,美味しかったね。」



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