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数ミリでも近くに
【大人 恋愛小説】

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-1

「葉子さーん」
 ベランダから掃出し窓を叩く音がしたので、一瞬「中村?!」と思い身構えたが、声の主は晴人だった。
 ガラガラと掃出し窓を開ける。今夜は少しだけ風が冷たいが、もうすぐ梅雨だ。手にしていたテネシーローズをスタンドに置いた。
「どうした?」
 窓を後ろ手に閉めてベランダに出ると、一枚のチケットが目の前にぶら下がった。湿り気を帯びた風に、パタパタとはためいている。
「彼女が行けなくなったんだ。葉子、一緒に行かないか?」
 チケットを見ると、葉子の好きな邦楽パンクバンドのライブチケットだった。
 実は葉子もこのチケットを取ろうとして、抽選落ちしている。喉から手が出るほど欲しいチケットだ。
「え、いいの?」
「うん。金も彼女が払ってるから、いらないし」
 晴人は火のついていない煙草を口に挟み、チケットを葉子に手渡した。100円ライターで煙草に火をつける。
「ありがとう、何か、悪いなぁ。彼女にお金払ってもらってるなんて」
 葉子は半乾きのロングヘアをぐしゃっと掻いた。
「いいんだよ、ドタキャンだもん。ムサい男連中連れて行くより葉子の方がよっぽどいいし」
 晴人の言葉に深い意味はないのだろうが、男に免疫がない葉子にとっては、頬を赤らめるに足る言葉だった。さっと葉子は横を向いた。
「今日は涼しくていいねー」
 何かを紛らわすかのように、チケットを持った手で両頬を挟み、葉子は大げさに空気を吸い込んだ。
「あ、俺、煙草吸うから、夏場なんか窓開けてると部屋に煙が入るかもな」
 シェアハウスは室内禁煙にしている。晴人がバードハウスの住民になってからこれまで、窓を開ける機会もなくて葉子は気づかなかったが、晴人はベランダで煙草を吸っていたらしい。
「風上に逃げるからいいよ」
 そう言いながら葉子は、貰ったチケットを大事そうに両手で広げ、部屋からの灯りを頼りに隅から隅まで読んでいた。サンタから貰った手紙を信じて読む無垢な子供のように、とても嬉しそうで、微笑ましかった。
 晴人は、自分の彼女にはない魅力を、葉子に感じ始めていた。


 翌日、仕事を定時に終えた葉子は一度家に着替えに戻った。丁度同じ頃、晴人も家に戻り、「駅で待ち合わせ」と言っていたのが、一緒にライブハウスまで行く事になった。
 ついさっきまでスーツ姿だった彼が、次の瞬間にはソフトモヒカンのパンキッシュな男に変わっていた。
 葉子もTシャツにスキニーパンツ、お団子ヘアと身軽な格好に着替え、玄関に出た。
 二人並んで駅まで向かう。ライブハウスは駅の近くにある映画館に隣接している。
 天気予報は雨の予報だったが見事に外れ、空にはぽつぽつと星が輝き始めた。
「いやー、チケット取れなかったから諦めてたのに、こんな奇跡があるなんて」
 葉子は大げさにジェスチャーして見せ、晴人は優しく微笑んだ。
「良かったな、ほんっと嬉しそうだな。葉子にあげてよかったよ」
 ヘヘッと少し笑って葉子はピンでとめたお団子頭を少し直した。小さく鳴り響く金属音は、晴人のウォレットチェーンの音だと葉子は気づいた。

 ライブハウスのロビーは煙草の煙が立ち込めていて、まだ開演前とあって混雑していた。
「葉子、前の方行くか?」
「晴人が行くなら行くけど、迷子にならないかなぁ」
 開け放たれたドアからライブハウスの中を覗き込み、葉子が不安げに言う。
「これ」
 ウォレットチェーンの片側を外し、葉子に見せた。
「財布はさっきロッカーに入れたから、これを葉子のベルトループに付けるから。そしたらはぐれない」
 得意げに言う晴人だったが、その場面を想像しただけで赤面必死の葉子だ。
「お前、顔赤くないか?」
 ニヤッとした顔で晴人が煽る。
「ほら、人がこんなにいたら暑いでしょーが」
 パタパタと顔を扇いで見せた。
 本当ははぐれたって迷ったって、一人で勝手に家に帰ればいいのだ。携帯だってある。
 何気なく口にした「迷子にならないかなぁ」という言葉で、晴人の優しさを引き出してしまった。
 これは普段、彼女に向けられている優しさであって、葉子はその代わりでしかないという事に気づき、静かに悶えた。

 前方が混み合う前に会場に入った。「Tシャツ上げて」と言われ、されるがままにベルトループにウォレットチェーンが装着された。
 葉子はその状態から横歩きで徐々に晴人から離れて行き「ほら、ここまで暴れられる」とにっこり笑った。
 葉子はライブには行き慣れているであろう事は容易に想像できるのに、どこか初々しい感じがして、晴人は「守ってやらなければ」と思った。
「あんまり離れると、ベルトループが切れるからな」
「あいあいさー」
 近づいて来て敬礼して見せた葉子の頭をぽんぽんと叩いた。
 葉子はまた赤面したが、そこを詰ると「人が多いから」としか言わないだろうと思い、黙って笑った。




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