Pandemonium Ⅰ-2
「……狂人か、貴様」
その様子に、兵士はたじろぐ。槍の穂先を突き付けられて怯まぬその姿もそうだが、夜も深まったこの時間に現れた奇妙な人間に、現世離れした何かを感じ取ったのだ。もしや魍魎の類ではあるまいか、と戦い慣れた傭兵らしからぬ想像さえ頭に巡る。
「口が聞けぬのか貴様、斬り殺すぞ！」
外出禁止令を破った人間の処遇は、兵士に任されている。つまり、殺しても構わないのだ。槍を持つ手に力を込めながらの威嚇も、やはり水に釘を打とうとするが如く、赤髪の怪人物には届かない。二人の兵士は、この異様な人間に困惑しながらも、冷静に観察をしていた。この者は彼らよりも体格で遥かに劣っているし、両腕には武器らしきものを持っていない。異様な雰囲気を纏っていることを除けば、外出禁止令を破ったとしてさっさと殺しているところだ。
「今すぐ止まれ」
それが最後の警告だった。兵士は既に、異様な雰囲気にたじろぐこともなく、戦う人間の目になっていた。腰を落とし、臨戦態勢を整える。赤髪の者は、ついに兵士二人の槍の間合いまで踏み入った。
その瞬間だ。兵士は互いに同時で槍を突き出した。胸を狙って突き出された槍は、匹夫の放つ鈍い槍とは程遠い、空気を切り裂くような鋭い刺突だ。傭兵は刺突の先に、確かな手応えを感じると確信した。だが、その確信は外れ、彼の腕には空気をただ切り裂くだけの軽い手応えだけが残り、槍の穂先で胸を突かれて絶命するはずの赤髪の姿は消え去っている。
刺突を避けられた。そう兵士が気づくまでの時間は、致命的な隙だった。槍の間合いにいた筈の赤髪は、一瞬で一人の兵士に迫り、その腕を振るっていたのだ。
「なっ……」
自らの左にいた男が、赤髪の放つ裏拳に胸甲を砕かれ冗談のように吹き飛んでいく様を、兵士は呆然と眺めた。理解を超える動きの相手に、だが傭兵は対応しようとした。槍を捨て、腰から長剣を抜き放つ。そしてこの危険な相手から距離を取ろうと後ろに跳躍しようとしたのだ。その判断は、傭兵として兵士として最高のものだったが、たった今左で男を吹き飛ばした筈の赤髪がもう眼前にまで迫っていることを悟り、兵士は絶望した。
兜の上から赤髪の蹴りが側頭部に決まる。体全体をバネのように使って放たれる蹴りで、男は弾かれたように吹き飛ぶ。そのまま地面を二転三転してようやく止まった時には、もう立ち上がることもなく地面に倒れ伏していた。全身を覆う甲冑、プレートメイルを装備していないとはいえ、警備兵の装備はかなりの重さだ。それを子犬を蹴飛ばすように扱う赤髪の膂力は、尋常ではなかった。
「うーん。ま、死んでないだろ」
その驚異的な戦闘力とは対照的に、赤髪、いや顔が割れぬように布を被ったエイダは呟く。
「さて、ベラとエステルのために働きますか」
エイダは風の様に跳ね橋を駆け抜け、一人分だけ開かれた門をくぐり抜けた。人一人分の隙間だけ開いている門は、外の異常に気がつけば城内の兵士がすぐに閉めてしまう。事実、外で二人の兵士が不審者に倒されたことを察知して、慌てて兵士が門に向かってくるところだった。
「オラァッ！」
気合の一声で、エイダは哀れにも彼女と鉢合わせになってしまった兵士の胴に掌底を叩きこむ。為す術もなく吹き飛んだ兵士は、遅れて門に向かってきていた兵士を巻き込んで地面を転がっていく。その様子を最後まで観察はしない。どうせ立ち上がることはできないだろうから。それよりも素早くエイダは城内の様子を観察した。警備の兵はまばらで、櫓に二人ほど兵士が立っている。彼らはエイダに気がついて今まさに警鐘を鳴らそうとしているところだった。
「歓迎してくれるみたいだねえ」
月光が淡く城を包み込む夜暗の中、けたたましい鐘の音が城内に響いた。それに気が付き、城内を警備していた兵士がわらわらと集まってくる。彼らは倒れる味方の兵士に驚愕し、そしてエイダを見るなりそれぞれの獲物を抜き放ち、疾走してくる。彼女を捕虜にしようなどとは考えていないことは、殺気に満ちた瞳を見れば考えなくともわかる。数にして10人は超えているだろう。
「……ちっ、素手でやるには多すぎるな。仕方ない、なあ」