Crusade Ⅲ-1
その日も彼、ロタリオは日頃の習慣に従ってビールの注がれたジョッキを片手に持ちながら、どっかりと椅子に腰を下ろした。ただ腰を降ろすだけでは彼は満足できない。より快適な姿勢を求めて、彼はいつもどおり、その両足を机の上に投げ出した。幾つかの書類が彼の足に敷かれたが、瑣末なことだ。彼にとってこの至福の時間を阻害されることのほうが問題だったからだ。
「でーも、仕事が溜まってるんだねえ、これが」
そのままの姿勢で、ジョッキを口に運びながらもう片方の手が握っている書類に目を通す。だが目下、彼の意識は喉を通るビールだけに集中している。
「っかー！ やっぱりビールは帝国産に限るねー。一汗かいたあとはこれに限る」
彼の職場では、ビールを嗜む人間は少ない。それは彼が互いにその黄金の液体を讃え合う仲間がいないということだ。彼はいつも一人でその液体を味わうしかない。職場の人間はビールに対する理解が少なく、やれどこ産のワインが至高だの、そもそもワイン以外飲むんじゃないと彼を叱りつけようとする人間もいるのだ。
全く彼にとって嘆かわしいことに、彼は職場で圧倒的に少数派で、彼にとって不都合な意見が多数派なのだ。だからこそ彼は、疲れた体を癒すために、自分の執務室でビールを飲むしかなかった。と言っても、長時間に渡って行われた会議の八割を夢の世界で過ごした彼の体は、呆れるほどの活力に満ち満ちていた。
ビールの喉越しを堪能した後、ようやく彼は資料に目を通す。先程までの会議の議事録であり、哀れな彼の部下が書記として会議に同伴させられたのだ。資料の一文を読みながら、その目付きはあまり興味を持ってその文章を読んでいるようには思えない。何度目とかのビールを口を含み、そして健康な胃に送ったときには、その資料のすべてを流し読みし終わったところだった。
彼の執務室は非常に広い。ただ、残念なことに手入れが行き届いてはいなかった。机の上には無数の書類が彼の足に踏みつぶされ、脇には様々な筆やらインクがほっぽり出してある。見事な絨毯の上にも珍妙なガラクタや何に使うのかわからないような器具
、そして彼の趣味である異国情緒溢れる武器が置かれ、壁にまでその勢力圏を広げていた。そして部屋の隅には一匹の猫が座り、じっと窓から見える外を眺め続けている。
彼は用心深く同僚と呼べる人間を執務室に呼ばないようにしていたので、その部屋の惨状を咎められることは未だになかった。最も、彼の部屋に進んで来たがる人間などそうそういないだろう。彼の性格が問題でもあるのだが、実際はもっと違うことが原因だった。
「またビールですか、猊下」
やたらと小さく、細かく書かれた報告書に目を細めながら顔を近づけていたロタリオは、突如響いたその声に驚き、椅子からずり落ちかけた。慌てた拍子にビールのジョッキが彼の腕から落ちそうになったが、ジョッキを彼の代わりに一人の女が掴んだことで、机の上をビールで覆うことは回避された。
ロタリオは器用にバランスを取ってなんとか椅子に座り直すと、神妙な顔をしながら咳払いをする。そして彼の中の威厳というものを総動員して、彼なりのしかつめらしい声を出した。
「……いたのかね、ノックするのが礼儀ではないのかな、シスター？」
彼が首を捻って視線を向ける先には、尼僧服を限界まで精密に、厳格に着込んだ尼僧が立っている。目前の上司の醜態に、特になんの感情も見せないその尼僧は、それが規則で決められていたかのようにスムーズな動作で、ロタリオにジョッキを手渡した。
「以前、『ノックなんてくだらねえ、俺の酒を飲め』と仰っていたのは猊下です」
「あー……そんなこと言ったかな、私」
尼僧の表情は、一切合切なんの感情も映しださない人形のようなものである。唯一、ふわりと流れる黒髪だけが、彼女に人間らしさを与えている。ロタリオは自らの半分にも満たない年齢の少女から、バツの悪そうな顔して視線を逸らした。尼僧は特にその件を追求することなく、別件、彼女にとっての本題を切り出した。
「会議の結果はいかがでしたか、猊下」
「うんうん、君の情報が役に立ったよ。法皇聖下は、今回の件を大変遺憾に思っておられる」