Crusade Ⅰ-1
エステルの顔に冷や汗が流れる。鼓動は自然と早くなり、目前の敵がいかに強大であるか、体が理解しているのだ。
（隙が……無い）
今の彼女には、尼僧服の裾に仕込んだ短剣のスパタも、自慢の仕込み長刀も、ダガーも無い。完全な素手で、戦闘を強いられていた。だが、相手も条件は同じだった。素手と素手での戦い。エステルとて執行官だ。体術の心得はある。だがこの相手にそれが通用するだろうか？
猫っ毛を揺らし、エステルはしばし敵の隙を見出そうと思考の渦を巡らせていたが、やがて彼女はそれを放棄した。彼女の性格は、より能動的で攻撃的な行動を好むものだった。いかに敵が強大であろうと、それを叩きつぶすことを彼女は理想としていた。
「……破ッ！」
彼女は先んじて床を蹴る。少女のものとは思えぬ速度で敵に肉薄すると、鋭い手刀を繰り出す。それは敵の首筋を正確にねらったもので、まともに食らえば意識を保つことはできない威力だ。だが、敵はその一撃を左腕一本でいなした。エステルの手刀は、嘘のようにエネルギーを逸らされ、力を失う。
だが手刀は本命ではなかった。彼女はその攻撃がいなされることを予想して、左腕での正拳突きの動きに入っていた。限界まで腕を引き、拳の威力を高める。後はそのまま一直線に敵の急所を突くだけだ。
「シィッ！」
呼気とともに正拳を繰り出す。その拳は敵の鳩尾を狙っていた。首と同様、人体の急所である。
だが、エステルの正拳突きより、早く、敵の右腕がエステルの顔面に直撃した。眉間に繰り出された敵の拳は、威力はほとんど無い。それも当然で、力を限界まで貯めたエステルの拳と違い、敵はスナップを利かせて手を伸ばしただけなのだから。だが、エステルを昏倒させることができなくとも、一瞬怯ませるには十分だった。
エステルは予想しなかった攻撃に晒され、その拳の速度を緩めてしまった。
それが致命的なミスである。次の瞬間には、エステルのつきだした拳は逆に敵に取られ、捻りあげられてしまった。関節を曲げられたことでエステルの体は自然と関節を壊さない方向へと方向を転換し、敵に背を向ける。
「しまっ……」
今更なんとかしようとしても遅い。エステルの手首をがっちりと締め、背後を取った敵は、エステルの首筋に隠し持っていた刃を押し当てた。
そのままそれを引けば、エステルの首からは鮮血がまきあがったことだろう。だが、生憎とその刃に見えたものは、ただの筆であった。
「狙いは良かったけど、やっぱり直線的なのよねえ」
筆先でエステルの首をくすぐりながら、ベラは呟く。エステルは、悔しさと手首を締められた痛さ、そして首筋の筆による刺激に身を捩る。
「う……離せっ！」
威勢のいい声は、しかし師匠の嗜虐心を煽るだけだったようだ。
「んん？ そんなこと言っていいのかなあ。私は敵よ？ この状態からならなんでもできるわよ？」
ベラは突然エステルの胸を右手でまさぐり始める。尼僧服からシンプルな白い寝間着に着替えていたため、簡単にその控えめな起伏をベラの手が行き来する。
「ちょ……どこ触って……」
エステルの抗議は、左腕を締めるのをやめたベラの右腕で塞がれる。
「あーあ、もう少しメリハリの付いた体だったら良かったのにねえ？」
挑発しながらも、ベラの手はエステルを責める。エステルは必死でもがくが、ベラの拘束からは逃れられそうにない。
戦闘の直接指導のはずが、いつの間にか単なるじゃれあいになっている二人を、エイダは面白半分で煽っている。
「いいぞ、生意気な小娘を蹂躙してしまえー」
どこから仕入れて来たのか、しっかりとぶどう酒を片手に、エイダは相変わらずベッドの上にごろんと横になっている。エステルは一瞬エイダに助けを求める目線を送ったが、酒に酔ったふりをしてその視線を黙殺するエイダには届かない。
「へへへ、観念しな。これからお前は私の……」
いつもの上品な仮面はどこへ行ったのか。ついにベラが低い声色でゲスなことを口走ろうとする。だが、彼女はそれを最後まで言わずに、ふっとエステルの拘束を解いた。エステルはすかさず振り向き、ベラに抗議を申し立てようとしたが、彼女の顔色は先ほどまでのふざけたものから一変して険しいものになっていたため、その口上を飲み込んだ。
「お客さんだな」
エイダもぶどう酒の杯を脇に置いて、体を起こす。
一同が静まり、窓へと視線を送る。いくらミドルード城下の教会とはいえ、その窓は木窓である。先ほどベラが閉めた木窓はきっちりと窓の役目を果たして、その先に広がるミドルードの防壁を映し出していなかったが、すうっと、音もなく木窓が開いていく。そして、木窓の隙間から、細い腕がぬっと伸びてきた。
そしてその腕はゆっくりと木窓を開けていく。開いた木窓には、窓枠に器用に乗る人間が座っていた。年も、表情も、男か女かもわからない。その格好が、全身あますところなく黒ずくめだったからだ。足から腕の先、頭部まですっぽりと漆黒の衣装を纏っている。唯一露出させているのは、美しい翡翠色の双眸だけだ。その姿はまるで人形劇の黒子のようだった。
「セシリー？ 局長への報告はどうしたの？ 何故こんなところに」
ベラの問いかけに、黒ずくめの人間は翡翠色の瞳に少し光を宿す。
「……城下の様子がおかしい。警告するために戻ってきた」
黒ずくめの人間は、どうやら女のようだと、その声質からなんとか判断できた。黒ずくめのセシリーは、およそ感情というものが感じ取れない平坦な声で、言葉少なく返答する。だが、エステルもエイダも、その返答は聞きなれたものだ。彼女は、先ほどベラが窓越しに聖務の報告をしていた人間で、エイダやベラ、エステルにとっては同僚にあたる。