雨時々、黒い傘 =der erste Teil=-5
「おーい、39度。目ぇ覚ましたみたいだけど、具合は良くなったのかい?」
そんな声が聞こえて、私はようやく現実感を取り戻してきた。
保健室。ベッド。39度の熱があって寝ていた、私。
「…程々に、良くなったと思います」
「そうかい。じゃ、そろそろ帰ろうかね、学校が閉まっちまうからね」
それを聞いてようやく気が付いた。窓の外はもう真っ暗だった。こんな時間まで寝ていたのだろうか。
「ほら、どうした? さっさと行くよ」
「…え、行くって…」
「あんたを送ってってやるって言ってるんだよ。ほれほれ、早くおし、あたしだって早く帰ってゴロゴロしたいんだからね」
布団を剥がされ、腕を引っ張られる。
「…あ、あの鞄」
「ああ、それなら、あんたん所の保険委員が持って来てくれてたよ。感謝しとくんだね」
あの、おせっかい…。
「やれやれ、ホントに遅くなっちまったねぇ。全く、あんたが幸せそうな顔して泣きながら寝てるから悪いんだよ、あれじゃあ、起せたもんじゃ無い」
「…泣いて…ましたか、私」
「ああ、どんな夢見てたんだい?」
「…別に…普通の…夢です」
「そうかい…っと、早くしないと警備員のジジイが来ちまうよ!! ほれ、急いだ急いだ!!」
起きて早々、私は非常に慌しく下校する事になったのだった。
私は、先生に自分の家までの道順を告げ、先生の車にて夜の街を帰っていた。
「…凄い車ですね、これ」
先生の車は、運転席と助手席しかなく、ドアが上に開く、真っ赤なスポーツカーだった。生まれて初めて実物を見た。
「だろう? あたしの自慢の愛車さ」
凄いスピードで夜の風景が流れてゆく。こんな細い道で、シフトは五速に入っていた。正直、かなり怖かった。
「…スピード、オーバーしてますよ、60キロくらい」
交通量が大して多くないとは言え、追い越し禁止の道路を滅茶苦茶なスピードで飛ばして行く。
「クックッ…交通法が怖くて車に乗れるかい!! 車に乗ってるときゃ、あたしが法律さ」
とんでもない人だ…轢き逃げしても、同じ言い訳をしそうだ。
「…あの、そろそろ、家に着くので…出来れば、少し、速度を緩めてください…」
このままだと、高速に乗ってどこまでも行ってしまいそうだった。
「おっと、そういや、あんたを送っているんだったね。やれやれ、年を取ると忘れっぽくなって困るよ」
「…そんな事を忘れないで下さい…」
と、言う間に、アパートの前に着いていた。ありえない速さだった。
「じゃあね、ゆっくり休むんだよ」
私が車から降りると、先生はそう言い残し、いかずちの様に去って行ってしまった。
もう、あの車には二度と乗るまい。
――時が経つのは早い。
父さんが亡くなって、もう、二年になる。
つまり、私は16歳。
自分の誕生日は、父さんの命日。
特に、祝ってくれる人も居ないから、私は父さんに会いに行く。
「…父さん、母さん、私、高校に入ったよ」
父さん達のお墓の前で、膝を着き、私は遠くに居る父さんに語りかけた。
「…って、言っても、まだ入ったばかりだから…全然、実感ないんだけどね」
時は四月十日。この間入学式が終わったばかり。クラスメイトの顔は誰もが見た事の無い他人で(でも、腐れ縁とはまた同じ学校、同じクラスだったけれど)、皆、活き活きとした顔をしていた。
「…今は、何をしようとか、考えてないけど…今度来る時までには、何か、見つけてくるね」
ふと、風を感じ、顔を上げる。桜の花びらが風に乗って舞っていた。
桜の木の下には、死んだ人が埋まっているから、桜の花は怖いくらいに綺麗なんだ、って言うけれど、それがお墓にあると、全然説得力が違う。
「…ホントに、怖いくらいに…綺麗…」
真新しい制服に花びらが張り付いて、紺地に薄桃色の水玉模様が付いたみたいだった。
「…また、夏になったら来るからね」
そうしたら、今度は蝉時雨を聞けるのだろうか。