雨時々、黒い傘 =der erste Teil=-2
「こりゃ、酷いねぇ…どうして、こんなになるまで我慢してたんだい?」
保健室のおばさん、と言うより、おばあさんと言ったほうがしっくり来る、保険教諭の堺あやめ先生が、カラカラと笑いながら言った。
「…理由はありません」
体温が39度もあったなんて、今知ったのだ。そこまで酷いとは思っていなかったし。
「まあ、体調を崩しての風邪だろうから、しっかり休めばすぐ直るさ。さぁ、とにかく、早退するか、寝るか、どっちか選びな」
私の肩を叩きながら言ってくる。
「…じゃあ、寝ます」
「そうかい。じゃあ、ちょっと待ってな。ベッドを空けて来るから」
空けて来る…?
「オラ!! 仮病の僕ちゃん!! 本物の病人が来たから、お休みタイムはここまでだよ!! さっさと起きな!!」
うわぁ…眠っていて無防備な頭に踵落しを…いくらあれがサボリの人でも、あんな起され方は可哀想だ。
「イッテェ!! っにすんだよ、ババア!!」
そりゃ、怒りはごもっともだと思う。
「ババアだと!? この糞餓鬼が!! あんまり要らん事ガタガタ吐かしてるなら、空気注射で黙らしてやるよ!?」
ポケットから空の注射器を取り出し、寝ていた男子生徒の首筋に向けて脅す。
本当に、保険の先生なんだろうか、この人。
「う、お…わ、わかった、起きっからよ、落ち着いてくれよ、バアさん」
「あたしゃ、素直な子は好きだよ」
手品の様にサッと注射器を仕舞い、布団を引っぺがす。
「チッ…ついてねぇ」
サボリの男子生徒が、頭を擦りながら立ち上がった。
「真面目に授業を受けてりゃ、こんな事にゃならなかっただろうよ」
手際よくシーツを交換しながら、笑い混じりで言う。
男子生徒は盛大な溜息を残して、保健室から去っていった。
「さ、クサい野郎の後で済まないけど、我慢しとくれ」
シーツと布団、枕まで取替えたのに、そう言われた今の男子生徒が非常に不憫に思えてきた。
「…別に、気にしませんが」
「そうかい。おっと、そうだ。薬、飲んどくかい?」
「…いえ、いいです」
頭痛がする訳でもなく、ただ、熱があって眩暈がするだけなので、薬を飲むまでもない。
「ただの栄養剤だよ。今から寝たら、給食、食えないだろ?」
確かに、三時間目の休み時間に紀美江に捕まって連れてこられたので、現在時刻は11時。今から寝たら、確かに給食は食べられない。
「…じゃあ、頂きます」
「そうそう、栄養は取らないとね。あんた、背が小さいんだから、余計にね」
誰も彼も、皆、口を揃えた様に『小さい小さい』と…言われてる方にしてみれば馬鹿にされているとしか思えなかった。
「…それこそ、余計なお世話です」
多少怒気の混じった声で、私は言い返しておいた。
忘れていた事を思い出すから、『思い出』と言うんだ、と、誰かが言っていたような気がする。
ならば、これは『思い出』だ。今まで忘れていた、記憶。
別に、何の事はない、取るに足らない記憶ではあるのだけれど、それでも――。