非線型蒲公英 =Sommer Marchen=-78
水道管を通る断続的な水の音、水の中で揺れる食器が触れ合う涼しげな音。あまり上手ではない鼻歌。
先程とは逆に――今度は妃依が、シンクで洗い物を行っている聡の様子を眺めていた。
「…何だか…ご機嫌ですね、先輩」
「そうかな? …〜♪」
「…ええ、普段以上に活き活きして見えますけど」
とても、数時間前に死に掛けていた人物とは思えなかった。
「別に、そんな事は無いと思うんだけどね…〜♪」
しかし、洗い物を行っている聡が纏っている雰囲気は、異様に朗らかだった。
「…それは…病気とかではないんですよね」
「え…? 何? …〜♪」
「…いえ…何でもないです…」
「…〜♪」
作業と鼻歌に戻った聡から視線を外し、妃依はヘクセンの方へと向き直った。
「…ヘクセンさん…少し聞きたいんですが、家事の分担は…先輩の家では主にどういう風になっているんですか」
「はい!? 私に質問ですか!? いいですよ!! 力の限り答えますよ!! …ええと、家事分担ですね!! まず、琴葉様が…無し!! 私が琴葉様の部屋のベッドメイクと猫畜生の世話で!! 弟様がその他全部ですよ!? ああ!! あと、強いて言うならマスターが炊事全般ですね!!」
「…琴葉先輩は、まあ仕方ないですけど…どうして、ヘクセンさんよりも先輩の方が働いてるんですか」
「ヒエラルキーの順序に則ったと言う所でしょうかネェ!?」
「…それなら、ヘクセンさんは最下層民じゃないですか」
「何を仰るのやら!! 私は当然、琴葉様の次ですよ!!」
「…まあ、そう思うのは勝手ですけど…」
――ふと、環境音になっていた水道の音と、聡の鼻歌が不意に途切れた。
「さて、と」
聡は軽く息を吐いて、濡れ手を布巾で拭った。
「…あ…先輩、終わったんですね」
「次は?」
「…え…っと…何がですか」
「ほら、風呂掃除とか、トイレ掃除とか」
聡は指折り数えながら、何処と無く、うずうずとした様子で答えた。
「…す、少し、落ち着きませんか…食後ですし」
「駄目だ!! こういう事は先にやっておかないと!! 後で姉さんに文句を言われてからじゃ遅いんだよ!?」
ああ、いつものスイッチが入っちゃったんだ…と、妃依は無感動にそう思った。
「…ここ、私の家ですから」
「ハッ…!! そ、そうだった…」
人は、好きな事に夢中になると周りが見えなくなると言うけれど、先輩の目には『雑用』が、それ程までに魅力的に映っているという事なのだろうか。
…多分…サルにとってのラッキョウの皮の様なモノに違いない。
「…とりあえず、座りませんか」
妃依は片手を翻して、座布団を勧めた。
「あ、うん…」
何となく畏まってしまい、おもむろに座布団に正座する聡。
「…」
「…」
落ち着いたら落ち着いたで、途端に間が持たなくなってしまったらしく、二人とも微妙に相手から視線を外したままで黙していた。
「な…何ですか!! この空気は!! 腹が立つほどに初いですねッ!! ウィットの効いた会話の一つや二つ!! 滑る様に口から出てこないんですか!? 全く、憎たらしいですねッ!! コノォッ!!」
この雰囲気に堪え切れなくなったムード・デストロイ・マシーン、ヘクセンは、二人だけの絶対空間を木っ端微塵に完全破壊した。
「…そう言えば、居たんですよね…」
「白々しいッ!! 先程まで会話していたのは誰です!? マスター!! 私ですよ!? そんな強引な存在の抹消の仕方は、いくら温和な私と言えども受け入れる事など出来かねますがねッ!?」
「…今からどうしますか、先輩」
「え? そうだな…」
騒ぐヘクセンを無視する事にかけては、恐らく並ぶ者の無い二人は、慌てず騒がず、邪魔者を眼中より排除していた。