B-1
雛子が、大と一緒に哲也の自宅を訪ねていた時刻、彼は家には居なかった。
哲也は、ある場所にしゃがみ込んで何かを眺めていた──涙で頬を濡らして。
和美の言葉をきっかけとして、教室に不穏な空気が流れた時、彼は学校を飛び出した。
「グッ…うう…」
耐えられなかった。
辛い思いが、とめどもなく押し寄せて崩れそうになるのを。
頭に浮かぶのは、父親と過ごした日々。不自由さは感じたが、母親と3人、笑顔の中で生きていた。
それが、あの日を境に一変した。
父親を無くした虚無感と共に、食うためだけの苦い日々が始まった。
仲間達との境遇の差。だが、それはまだ我慢出来た。本当に辛かったのは、周りの大人同様に、仲間が哲也に気を遣いだした事だった。
やがて哲也は、周りとの距離を取りだした──自己防御という深淵の底へと沈み込むために。
人との関わりを避ければ、自分も傷付かない。
そうして彼は、何年も過ごしてきた。
そんな時、初めて差しのべられたひとつの手と笑顔。最初は、おっかなびっくり覗いていたが、やがてそれは、一筋の光のように思えてならなかった。
哲也は、思い切ってその手を掴んでみた。
するとどうだろう。暖かい光が彼を包んでくれた。心地よい安らぎに触れて、心の中の深淵に少しだけ“希望”という糧が生まれた。
しかし、それを願わぬ人間がいた。そして、自分が望んで離れたはずの“仲間”の存在。
互いの言葉を耳にした時、哲也の中にあった深淵も希望も一気に瓦解してしまった。
唯、幼子のように泣くしかなかった。
腰掛ける眼下には、なだらかな山裾があり、石垣を組んで平らにされた田んぼが幾枚にも広がっている。
哲也は棚田に目をやった。1段ごとの石垣の周りでは、沢山の人夫が働いていた。田植えの時期を迎えて、石組みの補修にかかっていた。
涙で濡れた目が、人夫のひとり々を追った。そして見つけた。母親の姿を。
(母ちゃん…)
哲也の目に、また涙が溢れた。“唯一の理解者”である母親に、抱いて慰めて欲しかったのだ。
足が数歩、前に出た。しかし、それ以上は出なかった。
その目に飛び込んできた働く母親の姿に、彼の足は止まった。
泥にまみれた野良着と手拭いを頬被りし、男に混じり、あらん限りの力で、天に向かって声を挙げている姿を。
いつの間にか涙は止まっていた。哲也は立ち上がった。
そして振り返ることなく、元来た道を後帰って行った。その顔は、誇らしげでさえあった。