続・せみしぐれ〜color〜(後編)-26
「お〜い、千波!そっちの用が済んだら、庭に水撒いてくれ〜!!」
玄関先から聞こえるのは、相変わらず、隣三軒先まで聞こえるかのようなおじちゃんの大きな声。
「は〜い!今やりま〜す!!」
今ではもう、すっかり気にしなくなった日焼けの予感を胸に、私は軒先から飛び出した。
あれから、十年――…。
私は、あの時の約束通り、『無銭飲食』の宿代を支払う為、ここ『さくらだ』に戻ってきていた。
ただし…従業員として。
十年前のあの日、ここで過ごした夢のような夏休みが終わりを告げて、夫に連れ戻された私。
それでも、私を人形のように扱い、理不尽に暴力を振るう夫や、いつまでたっても彼を甘やかす義母達の異質さにようやく気がついて、私は、実家に助けを求めた。
けれど…もともと、松下の財力を目当てに、自分の娘を嫁として送り込んだような両親だもの。
予想通り、私は再び婚家へと送り返されてしまった。
夫は『恥をかかせやがって』と、毎日のように私を殴り、夜は毎晩のように陵辱され、家の外には一歩も出してもらえない日々。
…でも。
俯かなかった、私。
大切なものを、もう見失いたくなかったから。
悔しさで、握りしめた掌からは血がにじんだけれど、その手の中には、いつも一枚の写真があった。
どんなに辛い時でも、あの夏祭りの夜の私たちが…いた。
八方塞がりの闇に、小さな穴が開いて光が射し込んだのは、それから半年後のことだった。
夫も義母も不在だったある冬の日、ふとした隙をついて着の身着のまま家を飛び出した私。
ポケットにあった小銭で公衆電話の受話器を取り、意を決して掛けた番号は…あの別れ際、おばちゃんがくれたメモにあった覚えのない電話番号だった。
ずっと、不思議に思っていたんだ。
『さくらだ』の番号と並んで、時間のない中をおばちゃんが必死で書いてくれたであろう走り書きの数字。
これが、意味のないものだとは、どうしても思えなかったの。
吹き付ける北風の中、祈るような思いで聞いた数回のコールの後、私の耳に届いた穏やかな女性の声は…『女性の為のDV相談室』と名乗った。
それからも、なかなか思うように事は運ばなかったけれど、約二年の時を経て、私は――夫と離婚した。