異界幻想 断章その2-1
ティトー・アグザ・ファルマンの幼少期は、概ね平和で満たされていた。
自分が他人より恵まれて生まれた事は自覚していたし、切れ味鋭い頭脳を見込まれて幼い頃から三つ年上の従兄の世話役として王城に上がってもいたから、子供らしい振る舞いとは疎遠だった。
子供なのに大人のように扱われていた事に関して、不満は全くない。
同い年の子供が堪らない魅力を感じているくだらないおしゃべりやいたずら、群れて遊び回る事には何も感じなかった。
むしろ大人達が詰め込んでくる難解な知識や、交わされる白熱した議論の傍聴の方が面白くて引き付けられた。
そういった事を吸収して平然としている彼を見て可愛くないとか子供らしくないとかひそひそ囁く貴婦人達を見ると、イライラが募って仕方なかった。
自分にとって不要な事を切り捨てたら、どうしてこんな謂われのない嘲笑を受けねばならないのかと思う。
そんな彼をひっくり返したのが、大公爵公子だった。
つい、うたた寝をしてしまっていたらしい。
ユートバルトの微かな笑い声に、ティトーは痙攣して目覚めた。
「……あふ」
小さな欠伸をして、膝の上に乗せていた分厚い装丁の本を閉じる。
「なんだ、読書はおしまいか?」
巻物を持ったユートバルトのからかいに、ティトーは憮然とした。
「うっせー、昨夜は張り切りすぎたからな。会議に最後まで付き合ったから眠いんだよ」
幸せな夢を見てしまったせいで、言葉に刺がない。
ティトーはもう一度、夢を思い返す。
ほんの少し前、男も女も好きになれる自分の無節操さを悩んでいた時。
隠し事をされている事へ気づいた姉に悩み事があるなら相談しろと強く迫られ、かっとしてひどい言葉を彼女に叩き付けてしまった。
それでも姉は怯まず、自分を抱きしめてくれたのだ。
『いいこと?ティトー・アグザ・ファルマン』
ゆっくりと、噛んで含めるように姉は言った。
『あなたが、男を好きになろうと女を好きになろうと。聡明だろうと愚鈍だろうと。あなたと私はウェスヒル・キュエンテッド・ファルマンとクァセロ・ティエト・ファルマンの間に生まれた、たった二人の姉弟なの。それだけは忘れちゃ駄目よ』
思い出すと嬉しくて、視界が歪む。
「寝不足なのにそれを読む……か。僕の頭じゃ、一生かけてもそんな本は理解できないよ」
呆れたように、ユートバルトは呟いた。
ティトーが手にしているのは百年以上前に著された書物、大デュガリオールの『魔導総論』という本だ。
魔導士のためのそれまで曖昧だった部分の魔導の再定義や新解釈などを詰め込んだ、いわゆる専門書……それも、とびきり難解な奴だ。
本来なら弱冠十三歳の少年が理解できる本ではないし、頭の働きは鋭い方であるユートバルトでもとうの昔に繙く事を止めている。
「あー?確かに歯ごたえはあるけど、特別難しいってわけじゃ……」
蔵書庫のかび臭い空気を吸い込んで、ティトーは再び欠伸をした。
「……まぁ、覚えといて損はないだけだよな。実際に使えるようにはなれないだろうし」
個人の才能に拠る所が大きい魔導はさすがに扱えないだろうが、概念を学んでおいて損はないだろう。
こんな専門書を読み込む理由は、ただそれだけだ。
「?」
近づいて来る足音に気づいて、ユートバルトは首をかしげた。
「こちらにいらっしゃいましたか、殿下」
姿を現したのは、クァードセンバーニ大公爵だった。