ターミナルバス-1
目覚まし時計が煩くわめき散らす。
浅い眠りから起こされた始は重い瞼を痙攣させながら、無慈悲なそれを黙らせた。
(・・・・もう朝か。全然寝てないな・・・)
使い古した枕で潰れた後頭部を掻きながら、洗面所へと向かう。
すると既に妻の真由子が顔を洗っていた。
「早くしろよ、別に急ぐ用事も無いだろ」
始の呼び掛けにも答えず、子供の水浴びの様に飛沫を撒き散らしながら顔を洗い続ける真由子。
始は聞く耳を持たない妻に苛立ったが、朝から喧嘩する気力も無いので台所へ向かった。
「こんなのいらないわよ!ちゃんと食べなさい!」
「いいだろ、姉ちゃん野菜好きだしさー」
こっちで顔を洗おうとしたら、娘の亜弓と息子の仁志が喧嘩していた。
仁志が残したピーマンを、亜弓のハムエッグが乗った皿に移している。
「あ、お父さん。見てよ、仁志がね」
「ずるいぞ、また父ちゃんにちくんのかよ」
始は相手にせず、無言のまま蛇口から出る水を受け取り、顔を磨く。
しっかり洗ったはずなのに鼻の横がべたついており、何故か憂鬱な気分になった。
それに追い討ちをかける様に、子供達の言い争う声が大きくなっていく。
比べるのもどうかと始は思ったが、まだひとつだけな分目覚まし時計の方が可愛く思えてしまうのだった。
「あんた達、ふざけてないで早く学校に行く支度しなさい!遅刻しても知らないわよ!」
タイミング悪く洗面所から戻ってきた真由子も加わって、地獄の三重奏が始まる。
のんびり顔を洗いやがって、と始は舌打ちした。
「あ、あなた。行くときゴミ捨てといて」
そういえば、今朝はまだおはようを聞いてないな。
生温いハムエッグをもそもそと噛みながら、始はまたひとつ溜め息を吐いた。
(・・・・うるさいな。妻も子供達も、よくこんなに毎朝騒げるもんだ、しかも下らない事で)
まだ苛立ちを飲み込んで我慢していたのはいつ頃だろうか。
今では憤る気力すら何処かに置き去りにしてきた様な気がする。
満員電車に押し込まれて、早く目的地に着くまで耐えながら待つ。
以前は辛い時間だったが、最近は自分と同じく会社に行きたくないという思いを抱いている人がいるのかもしれないと思うと、親近感すら湧いてくるのだった。
「井本、何だこれは。発注間違えやがって、こんな初歩的なミスなんか・・・!」
「す、すみません・・・」
ただ頭を下げる事しか出来ない。
部署内に聞こえる様に怒鳴り続けられている事への悔しさも、憤りも、今は感じられなかった。
考えたくなかった、という方が正しいかもしれない。
自分の机に戻る間、誰かの笑い声が耳の入り口辺りを引っ掻いている様な気がした。