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凪いだ海に落とした魔法は
【その他 官能小説】

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凪いだ海に落とした魔法は 3話-1

英語のテストが終わると、担当の新木愛と入れ違いでクラス担任の教師が入ってきた。判を押したような話でホームルームを締め括り、彼は早々に教室を後にする。直後に教室の中をかしましく言葉が飛び交って、押し込められていた解放感が波のように伝播していった。
面白くないな、と僕は喧騒の中で、ひとり顔をしかめていた。
騙されたのか、僕は。仲間だと思っていた沢崎拓也に。
沸々と怒りと失望が込み上がってきて、胃が油をたっぷりと飲み込んだように重くなる。喉の乾きは暑さだけのせいではないだろう。

「志野っ!」

紙を引き裂いたように掠れた声は、菊地のものだ。「死のう!」と言ったようにも聴こえたが、もちろん気のせいだろう。その声は隠しようのない焦慮と怒気を孕んでいた。

「何だよこれ。も、問題、違うじゃんっ」
「大きな声出すなよ。怪しまれる」

菊地は慌てて辺りを見回した。もし誰かに聞かれていたとしても、きっと事前に張っていた山が外れたのだろうな、と思わせる会話にしなければならない。

「僕も驚いてる。ここにきて当てが外れるなんて、運がなかったね、お互いに」
「――運って。ていうか、何でお前が驚くんだよ」
「言ってなかった? “山を張った”のは僕じゃないって」
「ああ、いや、それはまあ、聞いたけれど」と菊地は言って、「じゃあ、誰なんだよ、あれ用意した奴は」と声を落として続けた。眉間にぎゅっと小さな皺を寄せて顔をしかめさせている。威嚇する猿みたいだった。
「それ、訊いてどうするの?」と僕は言った。
「どうするって――」
「金を返せって詰め寄る?」
「もちろん」
「無理だよ」
「えっ?」
「金は返せないって、そう言ったんだよ」
僕らのいる場所は、放課後の喧騒の中に埋没していた。もう声を潜める必要はないだろう。
「は?」
何言ってんのお前。彼はそんな感じで眉を八の字にして見せたが、その表情を効果的な恫喝として機能させるには元の顔が迫力不足だった。
「教室を出よう」
「おい」
「いいから来い。お前、白川慧にも売っただろ。あいつ同じクラスじゃないか」

僕たちは教室を出た。騒々しい廊下を急ぎ歩いて、階段近くの人目に付きにくい場所を選んで身を寄せる。
「沢崎だ」と僕はその名前を彼に告げた。
次の抗議を紡ぎ出そうとしていた菊地の口が、一時停止する。指揮者がタクトを持つ手を静止させたかのように。

「首謀者は、沢崎だよ」

言ってやった。誰にも言うつもりはなかったが、事情は変わったのだ。あいつ一人だけが安全圏で高みの見物なんて、許してやるものか。

「さわざきって――沢崎、拓也?」と菊地は慎重に確認する。そうしないと、何かが壊れてしまうのではないかと恐れているような口調だった。

「さわ、ざき、たく、や」

菊地の鼓膜にレタリングするみたいにその名前を口にすると、彼の表情は面白いように変わっていった。認識、理解、困惑、畏怖。沢崎拓也の名前が菊地の脳髄に浸透していく。それは宿命的な染みのように広がり、拭い難い焦燥を彼にもたらした。大した雷名じゃないか、沢崎拓也くん。


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