凪いだ海に落とした魔法は 3話-80
「眠いなら、灯り消そうか? 僕はまだ起きてるから、テレビはつけさせてもらうけど」
「そうね。じゃあ、そうしてもらおうかな」
部屋の電気を消して、テレビの音量を下げた。世界が深海に落とされたように錯覚する。秘境めいた暗がりの中で、ハイテンションな通販番組がミスマッチだった。
目覚まし時計がカチカチと時を刻み、テレビの中ではいかつい外国人が車にワックスを塗っていて、僕のすぐそばでは日下部沙耶が無防備に眠ろうとしている。
―へえ、この高級ワックスは酸性雨からバッチリ車体を守ってくれるのか。しかも使用後はピカピカじゃないか。
――違う。そんなことは全くどうでもいい。健全な男子として、高級ワックスなどよりも興味を引くべき対象がすぐそばにあるのだ。全脳細胞から理性をかき集めたところで、それを意識の外に追い遣ることは不可能に思えた。
僕はあぐらをかいて、眉間にシワを寄せながら、退屈な通販番組から何か秘匿された重大なメッセージを読み取ろうとするかのように、テレビ画面を凝視する。
暗闇の中で、チカチカと眩しく光る長方形。網膜が捕らえる映像は、しかし脳内で処理されることはなく、いずこへと消えていく。
僕は、脳裏で日下部沙耶だけを見詰めていた。
すぐそばに本人がいるのだが、無防備な彼女の寝顔を盗み見ることは、何かルール違反であるかのような、そんな後ろめたさがあった。
幻想の中の日下部は美しかった。でも、ベッドに横たわる日下部だってもちろん美しいに決まっていて――。
「嫌になる」
囁くように、僕は自嘲した。
心に傷を負った日下部が、逃げるように飛び込んできたこの部屋で得た安らぎを、僕が奪ってどうする。裏切ってどうする。何を悶々としているのだろう。自分でなければ殴り付けてやりたくなるほどの自己嫌悪が僕を襲う。
――もう寝よう。眠ってしまえば、夜が生んだ欲望も、時が浄化してくれることだろう。夜露を吸い込むように体に染み渡る睡魔が、情欲の火種をそっと消してくれることを願うのみだ。長い夜が明けて朝がきたら、フォーマットされたクリアな気持ちで日下部を送り出してやろう。そうだ。それがいい。実に紳士的じゃないか。
雑誌を重ねて枕を作り、クローゼットからタオルケットを取り出したとき、目覚まし時計のアラームを解除していないことに気が付いた。明日からは夏休みなのだ。朝六時に起きるなんて苦行に耐える必要はない。
ベッドに近付き、枕元の目覚まし時計に手を伸ばす。その袂には当然だが、日下部がいて、やはり当然のように、僕の目は彼女の寝顔に引き寄せられた。
仄かな灯りに照らされた彼女の横顔は、まるで繊細な意匠を施された氷細工のように儚く、危うげに見える。青白い光が彼女の肌の白さを誇張して、陶器みたいに艶やかな質感を宿している。溶けることのない永久氷河で造られたかのような、揺るぎない“いつもの日下部沙耶”は、今そこにはいない。無防備に眠っている彼女は、むしろ、人肌でさえ溶けてしまいそうなほどに揺らいでいる。触れればひびが入りそうなくらい、心許ない存在感が、それを見つめる僕の胸を衝いた。
造り物めいた彼女の美しさに、僕は密かに、そして静かに圧倒されていた。
ほんの数秒のことだった。瞳を奪われ、息を呑み、彼女の白い頬に危うく手を伸ばしかけ、自制する。その短い時間で、僕は今更ながらに自覚した。問答無用で気付かされてしまった。
――どうしようもないほどに、僕は日下部沙耶が、好きだった。
見守るだけでは飽き足らず、かといって奪い去る度胸もない。ただ胸の中に生まれた怪物に心を蹂躙されながら、呆然と立ち尽くすだけの脆弱な少年だった。