凪いだ海に落とした魔法は 3話-79
「男の料理って感じだね。小細工がなくて、シンプルだ」
「オブラートに包んだ言い方をしてくれるね。大味だと言いたいんだろ。大体、料理と呼べるほどのものでもないんだ。期待値を下回るのは当然だよ」
「でも、不味くはないよ」
「でも、旨くもないと?」
「いや。死ぬほどお腹が空いてるから何でも美味しい」
「あ、そう」
なら最初から素直に美味しいと言うことはできないものだろうか。日下部は黙々と咀嚼と嚥下を繰り返し、あっという間にパスタを平らげた。その行為は食事というよりも、単なる栄養の摂取という表現が近いように思えた。ウサギに餌を与えているような気分になる。
「ごちそうさま」
二十時間の飢餓から解放された日下部は、ブドウ糖が脳に行き渡るのを確認するみたいに、目を閉じてゆっくりと息をついた。それからだらしなくベッドに寝そべり、リラックスした顔で漂うような眼差しを天井に向ける。
「ところで、君は当然のようにベッドを占拠しているわけだが、立ち退いてもらうわけにはいかないだろうか。そこの所有権は僕にある」
ずっと気になっていたことを指摘する。
「飼い主に床で寝ろと? 躾のなってない犬ね」視線だけを僕に移して彼女は言った。
「僕が躾られていないのは君の怠慢だし、かと言って今後も躾られるつもりもないし、いや待てそもそも僕らは主従関係ではないし。むしろ君のほうこそ転がり込んできた猫みたいなものじゃないか」
僕の突っ込みに日下部はきょとんとした顔をする。
「私は猫なの?」
「ああ。それも野良だね。野性だ」
「なら諦めなさい。猫ってそういうものだよ」
「意味がわからない」
「犬は思った。この家の人間は餌もくれるし寝床も用意してくれるし、何より自分を可愛がってくれる。そうか、この家の人間は神様に違いない」
「ふむ」
「猫は思った。この家の人間は餌もくれるし寝床も用意してくれるし、何より自分を可愛がってくれる。そうか、自分は神様に違いない」
「おいおい――」
「私を猫扱いするのなら、神に奉るような丁重なおもてなしを要求するよ」
さっきまでのしおらしさは何処に消えてしまったのだろう。哀れな捨て猫が瞬く間に神様になってしまった。化け猫にでも騙されていたのか、僕は。
「いつから僕は古代エジプト人になったんだ」
「古代エジプト人?」
「猫を神格化して崇めていた連中だよ。生きた猫を盾にしたり、砲弾の代わりに猫を城に投げてきたペルシャ軍と交戦できずに降伏した人達」
「優しいんだね。シノにぴったりじゃない」
「それはどうも」
日下部は、それこそエジプトのミイラよろしく両手を胸に当てて目を瞑った。手の中に隠された胸の奥に、何か尊いものを秘めながら永久の眠りに就こうとする王妃といった趣だ。
僕はまだベッドの所有権を破棄したつもりはないのだが「まあ、いいか」と横たわる彼女を眺めて呟いた。そこが日下部沙耶の安らげる場所であるのなら、それを侵すような野暮はできない。一晩くらいは床で寝てやってもいいさ。