凪いだ海に落とした魔法は 3話-78
「じゃないと、契約を成立させることができない。自分のことが嫌いで嫌いでたまらない奴を、どうやって楽しませたらいいのかって話。自虐的になられたら楽しいことだって素直に楽しめないだろ」
日下部は得心したように頷いたあと、「それもそうね」と呟いて苦笑した。
「この話はもう終わりにしましょう」
「うん。それがいい」
その後、僕と日下部は黙ってテレビを観ていた。網膜は画面を映していたが、僕の意識は此処に在らずといった状態だった。
『“やられた”のはてめえのほうさ』
不意に、ニヒルに笑う沢崎の声が脳内で再生された。その幻聴は、鐘を叩いたように僕の心に長く残響して、胸に秘めたるひとつの真実を呼び覚まそうとしている。
僕は生まれたての感覚に内心で狼狽えながらも、それをおくびには出さずにテレビを眺めていた。
「ねえ、シノ」
十分ほど経ってから、日下部がのそのそと体を起こして僕を呼んだ。
「うん?」
「お腹空いたな」
苦笑いが浮かぶ。何を言うかと思えば、飯までたかる気か。
「夜食か。太るぞ」
「違う。昨日の夜から何も食べてないんだ。お金も無くなりそうだったから」
「昨日の夜から?」
「そう。昨日の夜から。二十時間ほど」
まるで野良猫でも拾ってきたような気分だ。世話が焼ける。
「待ってろ。何かあるか探してくる」
日下部が小さく頷いた。部屋を出て、一階の台所に向かう。両親はもう寝室なのだろう。居間に誰もいないことに安堵した。カップ麺かインスタントラーメンを探したけれど、ストックはもう切れていた。これから自腹で買いに行くなんて論外。ご飯も夕飯の分でなくなっているし、さてどうしたものかと悩んでいたところで、パスタの束を発見する。助かった。お湯を沸かしている間にソースを探したが、何もない。仕方ないので、麺つゆとマヨネーズとツナ缶で即席の和風ソースを作る。味は保証できないが、僕にそこまで責任を負う義務はない。茹で上がったパスタにソースを絡めて、一口だけ味見してみた。まあ、食べれないことはないだろう。トレイにパスタと麦茶を乗せて部屋に戻った。
「あ」
僕の手にしたトレイを見て、日下部の目の色が変わった。
「それ、食べていいの?」
「食べられるのなら」
「どういう意味」
「味は保証しないって意味。ベッドの上では食うなよ」
机の上にトレイを置いてから、僕は床に座る。
日下部は得体の知れない物体を観察するような目でまじまじとパスタを眺めてから、おもむろにフォークを手に取る。僕は彼女がフォークに麺を絡めて、口に運び、ゆっくりと咀嚼する様子を視界の端に捕らえていた。
「なるほど」と彼女は言った。それは味の感想と言うより、成分の解析でもしているかのようだった。