凪いだ海に落とした魔法は 3話-77
「OK、もう充分だ」
「いいの?」と彼女が言う。
「このままだと結局朝を迎えそうだからね」と僕は苦笑する。
「まあ分かってたよ」
「何が?」
「何だかんだ言っても、シノは泊めてくれるって」
僕はそんなに都合のいい男だと思われているのだろうか。だとしたら、沢崎に忠犬扱いされるのも仕方がないかもしれない。
「シノさ、私が電話したときに泊めて欲しいって言ってたら、即答でYESって言ってくれてたと思う」と、彼女はそんなことを言った。
僕は考えてみる。あの時の日下部は、電話越しにも、まるで段ボールの中で震える捨て猫みたいな風情を湛えていた。世界の断崖から発信するSOSのような電話だった。あの時に頼まれていたら、僕は答えに迷っただろうか。
「そうかな」
導き出された結論は日下部の台詞を肯定していたけれど、それを認める気恥ずかしさに、僕は言葉を曖昧に濁した。
「そうよ。あなたはそういう人だもの」
すべてお見通しよ、とでも言うように、日下部はたおやかな動作で髪を掻き上げた。
「シノも充分、イカれてる。こんな私に、優しくしてさ」
自嘲するような物言いに、僅かな反発を覚える。何かを言ってやろうと口を開いたけれど、日下部の憂鬱そうな目に、僕の言葉は押し留められた。
古びた神殿のように無表情な顔付きの中に、微かに仄見えた陰。
「でも」と彼女は言った。
「一番イカれてるのも、一番許せないのも、私なんだよ。あいつと父さんの仲が怪しくなったときも、母さんがそれに気付いたときも、死んでから今までも、私はずっと傍観者だった。自分の家族が壊れていくのを、ドミノが倒れるのを眺めるみたいに、何もせずに静観しているだけだった。ボロボロに壊れて、手遅れになってから抵抗したって遅いのにね」
自分の心をナイフで抉るような冷酷な声で、日下部は語る。
「もういいよ」と僕は言った。
「君が君自身を許せないって言うのなら、好きにすればいい。後悔のない人生があるなんて、僕は信じない。ただ、自分を嫌いになるのはやめて欲しい」
彼女はぼんやりとした顔で僕を見遣った。ブロンズ像みたいに整った面に、隠しようのない疲れの色が見て取れる。
「じゃないと――」
じゃないと、何だと言うのか。
『じゃないと、君が好きな僕のことさえ、君は嫌わなくちゃならない』
僕は今、何を言おうとした。
自然と浮かんだ言葉の意味に、誰よりも僕自身が驚いていた。
「何?」
日下部が、途切れた言葉の行き先を探して不思議そうに眉を上げている。続きを催促する眼差し。逃げ出したくなる。
「ああ、いや」
僕はしどろもどろになりそうな言葉を慌てて整理した。