凪いだ海に落とした魔法は 3話-76
「というわけで」
日下部はそう言って、抱えていた膝を伸ばした。体をほぐすようにひとつ伸びをして、「ふうっ」と息を吐く。長い脚をベッドに放り出し、寝そべりながら、猫みたいな目で僕を見る。
「私、今、困ってるの」
彼女はその先の言葉を注意深く口の中に留め置き、「みなまで言わずともわかるでしょ」と言うように微笑みを作った。製作的笑顔。
「あ、そう」と僕は気のない返事をする。
「何を困ってるのか訊かないの」
「泊まる場所がない、とでも言うつもりか」
ほんの僅かに、彼女は首を揺らす。どのようにも解釈できる身振りだった。YESともNOとも、あるいは「それはどうかしら」という意味にも。寓意的で、秘密めいた所作。そこに潜む魔力に気圧されて、僕はそれ以上の言及ができなくなった。
「いつかは帰らないといけない」
暫しの沈黙のあと、僕は言葉を捻り出して言った。子供を諭すような調子で。
「そうね。でも、今ではない。明日から夏休みだしね。タイミングを決めるのは私。あなたではない」
冷淡な口調で日下部が言う。復活の女王様モードだ。
「泊めなさい」
「勘弁してくれ」
「何故?」
何故だって? それを僕に訊くのか、こいつは。
「学校が終わって早々、女の子を部屋に泊めてるなんて知られたらまずいんだよ」
「知られなければいいじゃない。静かにしてるよ」
それとも、と彼女は氷のように冷たい表情で唇を開く。
「静かにさせないつもり?」
その言葉の解釈には細心の注意を要した。誤解を招きやすい意味の言葉だし、それでなくても相手の冷静さを理不尽に奪うだけの容姿が、日下部沙耶には備わっているのだから。
「またまたご冗談を」と僕は言った。
日下部沙耶相手に何かやらかそうと企むほど、僕は命知らずな人間ではない。勇気と無謀は違うのだ。決して、意気地が無いわけではない。
「シノ。あなたに断る権利はないよ」
「嘘だろ。ここは僕の家で、僕の部屋。君は僕に従う義務がある。そうでないはずがない」
僕の抗議に、日下部は扉を閉ざすように沈黙を守った。厳重に鍵をかけ、何人たりとも立ち入らせないというような頑命な沈黙だった。固く口を閉ざし、アスファルトみたいに無表情な顔で僕に視線を送る。
「駄目だ。それだけは、許可できない」
沈黙。射るような眼差しだけが雄弁に命令を語っている。勘弁してくれ。
「男の部屋に年頃の女の子が泊まるのはよろしくない。例え変な気がなくても問題なんだ。こういうことはね」
沈黙。いい加減に空気まで凍り付きそうだ。
「頼むよ日下部」
重い沈黙。
僕は、溜め息をついた。
仕方ない。