凪いだ海に落とした魔法は 3話-72
「シノ」
背を向けたまま、日下部が僕の名前を呼んだ。
「何?」
テレビを観ながら返事をする。へえ、そうか、この選手はボランチやサイドバックもこなせるのか。ユーティリティもあるなんて、ますます素晴らしい。
「本当に、何も訊かないんだね」と、彼女は不思議そうに言う。
「夕飯食べた?」僕は訊いた。
「何よそれ」
「いや、何か訊いて欲しいのかなって思ったから」
「優しいのか、冷たいのか。どっちなんだろうね、それ」
「冷たくするなら、こんな時間に部屋には上げない」
「それもそうか」
日下部が一向にこっちを向こうとしないので、何だかお互いの独り言が奇跡的に噛み合っているような会話だった。
女性は基本的に自分のことを語りたがる、という話を僕は思い出した。男は個人的な悩みを内側に溜めて消化する。女は吐き出してすっきりする。男同士だったらこういうとき、何も詮索せずにいるのが正解だったりするのだが、日下部の場合はどうなのだろう。
「まあ、何も言わずに溜め込んでいたら、腐ってしまうことだってあるかもな」と僕は言った。
日下部が視界の端に僕の姿を収めるように、首だけを動かして横を向いた。
「僕も、知りたくないわけではない」
「そう」
「聞かせてくれるかな。夏休みをフライングした理由」
日下部はようやくこちらに向き直り、体育座りのまま、意思の強い瞳で僕を見る。
「抵抗してるの、私」
彼女はそう言うが、述語だけでは何が何やら。
「何かと戦ってるのか」
「母親候補」
「ふむ」
「つまり、父の恋人」
「なるほど」
日下部の母親がもう亡くなっていることはすでに聞いていた。父親に再婚相手が出来て、それを快く思わない日下部が“抵抗”に出たと。
「不登校が君の言う抵抗なのか」
「学校だけじゃない。家にも帰ってないから」
「家出ってことか」
「そう。あいつ、三日前の夜からうちにいるの」
あいつ、というのが母親候補者のことなのだろう。淡々とした口調だが、その単語を口にするときだけは、言葉の端に憎しみのアクセントが付加されていた。
けれど、と僕は少し意外な思いでいた。
「けれど、父親が再婚するのが気に入らないっていうのは、少し意外だ。君は、あまりそういうのは気にしないほうかと」
「もちろん気にしないよ。父さんが再婚したって。別に、それ自体は」
「じゃあ何が」
「――あいつじゃなければね。あいつだけは、駄目。絶対に駄目。絶対、許せない」
瞳の奥に瞋恚と懊脳を覗かせて、彼女は呟くように言った。柳眉を逆立て、呪詛のように「許せない」と語る彼女の面立ちは、神話の世界のネメシスを僕に連想させる。美しくも、憎しみで全てを灰塵に帰す、復讐の女神。