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凪いだ海に落とした魔法は
【その他 官能小説】

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凪いだ海に落とした魔法は 3話-67

水曜日になって日下部が突然、学校を休んだ。遅刻したり授業をサボったりは日常茶飯事だったけれど、丸一日姿を見せないことは初めてだった。担任教師は日下部が欠席した理由を何も言わなかった。無断欠席なのかもしれないし、敢えて伝えるまでもない情報だと判断しただけかもしれない。ホームルームでは、まるで始めからそんな生徒など存在しない、というような無関心さを彼は貫き通していた。
僕と白川以外のクラスメートも似たり寄ったりで、誰も日下部の不在に関心を払っている様子はなかった。頻繁にいなくなる人間が一日くらい完全にいなくなったところで、それを異変と認識することはない、ということだろう。

日下部沙耶のいない教室は、思いの外退屈だった。
ジグソーパズルが1ピース欠けているだけで、その不完全性を際立たせてしまうように、彼女の不在は教室を寂寞たる空間へと変質させてしまった。それは空白ではなく欠落だ。在るべきはずのものがないという、確かな喪失感を僕は自覚していた。
僕の目の前にある空席だけが、冷たい肌触りの別の時間性が流れているように感じられた。形而上の概念だけを吸い込むブラックホールのように、僕が教室という物に抱くべき感情をその空間が吸収しているようだった。

「夏風邪じゃねえの。明日になれば来るだろ。ああでも、夏風邪は長引くって言うよな」

放課後の屋上。沢崎がマルボロを吸いながら、ネジの緩んだ口調でそう言った。
沢崎お気に入りの喫煙スポットである屋上は、扉が施錠されているため、生徒の立ち入りは出来ないようになっている。
こうやって鍵無しで屋上に辿り着くには、まず三階の社会科資料室に入る必要がある。黒板とは反対側の壁の下に小窓があり、そこに侵入すると、滅多に使われることのない小さな用具室の中に入れる。用具室には非常口があって、その扉を抜けると外の非常階段に出るのだ。職員室の窓からは死角にあるその階段を登って行けば、屋上に出ることが出来るというわけだ。文化祭や体育祭の時にしか開けられることのない用具室に、用もないのに入る奴はいない。今のところ、このルートを使っているのは僕たちだけだ。
沢崎に煙草を一本もらって、ゆっくりと煙を肺に入れる。軽い浮遊感があった。

「でも、今まではこんなことはなかったんだよ。遅くても午後の授業からは出席していたんだ」と僕は煙を吐きながら言った。
「知るか。気になるなら電話かメールでもしたらどうだ」
「それはもっともだが、口実がない」
「口実? ないのかよ」
「ないだろ、別に」
「心配してるんじゃないのか」
「心配なんてしてないさ。保護者じゃあるまいし」
「電話する口実もないし、心配もしていないと。なら黙って明日まで待ってろよ」
「そうは言ってもなあ」

やれやれ、と沢崎は口にして大きく息をついた。溜め息なのか、煙を吐き出しただけなのかは分からなかった。そこにある呆れの色に、僕は軽い反発を覚える。

「何だよ」
「俊輔、お前、重症だな」

本気で憂える顔をしながら、沢崎が意味不明なことを言う。大丈夫か、と目は訊いているが、主語が何なのかは解読できない。

「だから、何が言いたい」
「おやおや。自覚がないとは。ますます重症だな」

今度は失笑混じりの言葉を投げて放つ。何なんだこいつは。

「お前こそ大丈夫か。さては暑さで頭がやられたか」
「“やられた”のはてめえのほうさ」

煙草を噛んだまま、口の端を歪めて野卑な笑みを浮かべる沢崎。品のない種類の笑い方なのに、彼がやるとシニカルな微笑に見えてくるのが腹立たしい限りだ。
「どうかしてるよ」と僕は言って煙草を靴裏で踏み潰した。


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