凪いだ海に落とした魔法は 3話-65
「右もお願いね」
「両方開けるの?」
「ええ」
ポジションを入れ換えて、今度は右の耳を消毒する。蕾の開きかけた薔薇みたいな耳の形。人の耳をこんなにもまじまじと観察するのは初めてかもしれなかった。
「次、マーキング」
最早当たり前のように命令してくる日下部。
「はいはい」
無菌ペンで彼女の耳たぶに印を付ける。白磁のような肌にペンを入れるのは、積もったばかりの新雪を踏み潰すような躊躇を僕に感じさせた。
「志野くん、従順だね〜」
「忠犬野郎。撫でて欲しくて仕方がないのさ」
にやけた顔で揶揄する二人を尻目にして、反対側の耳にもマーキングした。
「忠犬とは酷い言いぐさだな、沢崎。機械のメンテナンスをしてるように見えないのか、お前には。奉仕じゃなくて調整みたいなものだろ」と僕は反論する。
「見えねえよ」
「見えないわ」
異口同音に否定する沢崎と白川。まあ、そうだろうな。
「人を機械呼ばわりするシノも大概よね」
心外だと言わんばかりに日下部がチクリと刺してきた。
「まあ確かに、機械はこんなふうに人に命令しないしね」
「そうかな。機械に支配されている一面だって現代人にはあると思うけれど――ねえ、この位置で合ってる?」
もう日下部はピアッサーを耳にセットしていた。僕はマークの位置を確認して頷いた。
日下部はためらわずにハンドルを押し込む。唇は閉じたまま、「ん」と喉の奥から小さな声を漏らした。
「本当ね。痛くない」
「後から少しずつ痛くなってくるよ。僕が今そんな感じ」
反対側にも穴を開けたあと、白川と沢崎がそれに続いた。白川は両耳に。沢崎は左耳だけ。ピアッサーは使い捨てなので、終わった後には計六つのガラクタが生まれた。考えてみれば、人体に穴を開けるために開発された機器で、殺傷能力がないのはこいつくらいではないだろうか。槍、銃、ドリル、手術用の錐etc。
始めは誰も痛みは感じなかったけれど、穴を開け終えた感想を口々に言い合っている内に「痛い」と言う回数が増えてきた。それでも談笑を続けていると次第に痛みは薄れてきて、一時間もする頃には誰も「痛い」とは言わなくなっていた。体に穴が開いたのに、この程度の異変で済むというのは何だか不思議な気分だ。
「そう言えば、“白い糸”の都市伝説って知ってるか」と沢崎が言った。
「ああ、聞いたことあるな」
「何それ。沙耶、知ってる?」
「さあ」
日下部が首を横に振る。興味も視線も漫画に向けられたままだった。彼女が読んでいるのは、僕の部屋に置いてあるギャグ漫画なのだが、無表情な顔で淡々とページを捲られると、何だか僕が落ち着かない。“楽しくない”のは分かっているはずなのに、何故ギャグ漫画をチョイスしたのだろう。
「ピアスを開けた穴からな、白い糸が出てくるんだと」
「糸?」白川が首を傾ける。
「ああ。そんでそいつを引っこ抜くと、失明するって話さ」
「何それ。目が見えなくなるの?」
「その白い糸の正体は視神経でしたって落ちなわけ」
沢崎は「くだらないだろ」と言うように鼻で笑った。
「何で視神経が耳たぶに通ってるのよ。バカじゃない」
信じらんない。と言いながら白川は体を弾ませるようにしてけらけらと笑い出した。